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東大制作展Dest-logyに行ってきた!!行ってきた🎶


最近気になっていた、テクノロジーの背後の欲望の構造と関係性について、色々考えさせられる展示で、ついつい見てきたままの勢いで気になった作品についての感想をnoteにまとめちゃったのが以下です。


好き勝手かたっちゃたんですけど、そのインタラクションも含めてメディアアートのインタラクションなのかなと。
あるいはこれは、「新しい世界線」の展示から生まれた私の世界線における展示の話。

大制作展についてはHPをご参照ください。


1
『The world line』 成功し続ける失敗

PCの前に立つと、画面に備え付けられたカメラが捉えた自身の顔が映り込む。
画面に写った私の顔の上にFemaleと表示され、顔を動かすと今度はMaleへと移り、そしてまたFemaleになる。
PCモニタ手前のニキシー管が、日付をせわしなく表示する。PCが判断した被写体の誕生日だ。


常に動き続けるそれらの表示は、常に判定に失敗し続けることを意味する。


Amazonが人事評価AIを取り下げた事件は記憶に新しい。元のデータにみられたジェンダーバイアスを、機械学習によってAIも取り込んでしまっていたためだ。
機械学習によって私たちが男女に根拠なく振り分けらる時、それが示すのは果たして社会的に構築されたジェンダーなのか、あるいは生物学的なセックスなのか。
いずれにしろ二元的なバイナリーにわけららないそれを無理矢理に振り分けられる経験を受ける時、そして機械の判定が想定を外れて失敗する時、私たちは自分にこう問いかけずにはいられない。


ジェンダーであれセックスであれ、私たちは性別を二元的に振り分ける根拠など持っていないのではないか、と。


外性器、内性器、あるいは性ホルモン、そして性染色体。私たちの性別を示す生物学的なマーカは複数あるけれども、そのどれもが時には食い違う。XY型を持ちながらも外性器も内性器も女性器であるXY 純粋性腺形成不全症はその顕著な例だ。
私たちの性は、ジェンダーは当然の事として、生物学的とされるセックスさえも、細部を見れば、曖昧な雲の上に形作られた神話とも言える。


だからプログラムは永続的に判定を間違え続ける。私たちのパフォーマティブな性のあり方が、ジェンダーを演じることに失敗することによりジェンダーを崩壊させ生成するように、プログラムの判断が失敗する度に、無数の相矛盾する世界線が私たちの神話を崩壊させる。作者の意図に関わらず、それは完璧に失敗して見せてくれる。


めまぐるしく蠢くニキシー管の表示は、男女と年齢によって生殖統計をとる私たちの権力社会を嘲笑うかのようだ。そのマーキングはそもそも無根拠的であり、政治の技術であるに過ぎない。


失敗し続ける判定と、失敗し続けるプログラマの意図によって、0と1の世界線の果てから作品は完璧に十全に饒舌にそのことを伝えてみせる。


2
『8mm make』 アーカイブをアーカイブする欲望

8mmフィルムが音を立てて回りだし、暖色のランプがそれを照らし映写する。けれど、そこに映し出されるのは、8mmフィルム特有の粒度の高い映像ではなく、鮮やかな輪郭のドットによって寸断された映像だ。


インクジェットプリンタによって生成された8mmフィルムのコピーは私たちのアーカイブが技術の革新によって崩壊していく様子を克明に伝える。摩耗し砕け、炎上するフィルムは、もはや再現出来ない。デジタルアーカイブはそれを物理的に再現しえない。


それはなんと皮肉なことだろう。小型化された8mmフィルムは、すべてを記録し繰り返し再生するアーカイブとしての役割を持っていたはず。それは、私たちのデジタルアーカイブが持つ貪欲な欲望の古い祖先のひとつ。
アーカイブ的な欲求と利便性。そうした性質を備えた8mmフィルムが、デジタルという投影機によってより一層に拡大されたアーカイブ的な欲望と利便性の前に駆逐される。


おそらくきっと、私たちはその時のノスタルジックな感覚さえ、記録し保存したいと願うのだろう。


粒度を下げながら、私たちのアーカイブは増え続け、そしてまた駆逐される。
アーカイブの欲望はアーカイブの欲望によって薙払われる。ドットの荒い映像が、私の視覚を覆い尽くす。


3
『韻を踏む』意味付け位置づけの権威付け関係図

私たちはデジタル化された膨大な過去のデータベースを持っている。
過去という膨大な資源は、発掘され圧縮され、未来を作る燃料となり得る。
土壌、といった古いシステムから化石燃料に至るまで、あらゆる資源に応用されるこの指向は、テキストにも適用される。


ひとつの文章が母音の韻を踏む、という規則に従ってまた別の文章を生む。
アルゴリズムが白紙の紙の上に最適な文を産み、私はそれを物理的に踏んでまた違う文章を踏んで韻を踏む。


それらのセンテンスは青空文庫から持ち運ばれて解体されたもので、過去の資源にほかならない。それを始原にして、新しいパラグラフが生まれる。
作品は、過去の資源を韻という恣意的な要素によって意味的な要素を相対化し解体しオリジナルを消し去って未知の要素に作り替える。
韻を踏みたいというシンプルな無みたいな欲望は、新たな価値体系を文章に付与して賦活する。鑑賞者は自分の身体を使ってその構造を文に刻んでいく。


鑑賞者が踏むこの先には、さらに文を生成し、生成された文が文を形成し、形成れた文が文を成形するという無限の図書館の道があるような気がした。
その先にあるのはバベルの図書館というより、読まれる必要のない文章が文章を産み、繁殖していく言葉の海となるような小説「自生の夢」のような世界だと思う。


でも、この作品が何より面白いのは、作品が韻を踏むという無邪気な欲望を決して隠さないところだと私は。
そのことによって、私は文章を位置づけ形付け意味づけ価値づける、無意識的な欲望による社会的な動作を、とてもシンプルな形で見ることが出来た気がした。

多分きっと私たちのポリティカルは、こういう何気なく踏む言葉の道の上に位置してるんだと思った。


番外
『誰そ彼の十二月廿日』
 現実を破壊するために虚構は崩壊し続けろ


作品の感想は特にない。そもそも、私はこの作品の作者の友人だし、友人の作品を語ることは難しい。
ただ、私の知ってる小山このか作品に満ちていた、アイデンティティから生まれる社会的な叫び声が「クリぼっち」という虚構に飲み込まれていたのを、ぼんやりと見つめた記憶だけが残っている。
そしてその曖昧さは、展示全体に要求されたであろうナニカに相応しいようにも、思えた。


テクノロジーとはポリティカルなものにほかならず、それを駆動させる欲望は社会的なものだ。テクノロジーが行う問いかけは、問いかけの領域を外れて駆動するシステムとなり、それ自体が政治権力を成すひとつの要素になる。
そこから外れて純粋なテクノロジーが存在し得る、中立的な問いかけがありえるという考えは幻想に過ぎない。
例えば飛浩隆の小説が描き出すSF的メディアアートの世界はそれを明示する。そこでは歴史と人に刻まれた傷と欲望がテクノロジーとアートによって際限なく拡大される様子が克明に壮麗に記録されている。私たちはヴァーチャルな身体をアビューズし、世界と溶け合う感覚を求めて世界を破壊する。そしてその欲望を誘発する仕組みが、テクノロジとメディアアートの中に組み込まれている。
欲望のメカニズムから離れ、中立的で透明なテクノロジは成立しえない。チューブ絵の具というテクノロジーが外光の下で絵を描くというアフォーダンスを持ち、郊外で絵を描くという都市生活の結実である印象派を形成したように。
出光真子がフィルムというテクノロジを使い、フィルムの持つ家族的な性質を露に皮肉に顕にしたように。
テクノロジが生み出す文化は社会の網目の中に存在する。
メディアアートの面白さとは作者の意図を必ずインタラクションの揺れによって伝え損ね、にも関わらずまさにその失敗によって作品の欲望を自ら露呈するところ、にあるだと私は思う。失敗によって構造が顕になり、構造への批判可能性が生まれ、構造は失敗によって解体される。メディアアートの失敗は祝福にほかならない。なんと言っても、落合陽一のメディアアートだってよく故障したり失敗しているのだから。
それはその場に存在しない、網目の上にいる存在を、網目の内側に暴露する。統制や権力を、生の内部に取り込まれた政治の技術の中に見出そうとしたのは70年代のことだった。それらは見えない関係性の中にあり、教師として私たちを生成する。メディアアートは、その真っ只中にありながら、それ自身の中に、作者を超えた権力と統制のあり方を時に現出させる。学生の裏側にあるモノを。
小山このかの作品は、自身になりきることに失敗し同時に虚構になることにも失敗することで、構造の破綻を示していた。



終わりに


とにかくワイワイと楽しい展示だった。どこでも笑い声が聞こえて、そんな展示が嬉しかった。


魔法を自由に使う学生達が羨ましくって、憧れてしまったもの。
そしてその魔法が実現されるために必要だった準備を思うとくらくらする。監督下のもとで材料を集めて方陣を正確に描いて儀式を行って……。


音ともに現れる星、見えない存在の痕跡を残す砂、楽を奏でながら揺れるゆりかご、拡大された触覚、認識の過程を示す骨格、映らない鏡、生まれた年をずらすニキシー管の光、無数の自分を生み出す実質の現実、崩壊しない崩壊する幻想、手振りから生まれる渦、人をかき抱くサーボの集合体であるロボット、幸福を見せる黄色い部屋、アーカイブ不能になってしまった過去、自動で韻を踏める本、絵文字の裏の顔、負担のないちゃっと、人の些細な幸せを遂行し続けるドローン、永遠に訪れない崩壊、人々を導く人型機械。


今それらの魔法を一つ一つ思い返しながら現実に帰るとなんとも味気ない。

私の周りには魔法よりも魔法のような奇跡よりも奇跡のような複製可能な技術に囲まれているのに。


そして私はこうして文字を打ち込んで通信して画像を描いて編集してキーを叩いて充電しながらLEDの光を浴びてエアコンの暖気を感じながら思う。この欲望はなんだろうと。


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