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推しを四人紹介して!といわれたので紹介する

Twitterで推しをを四人紹介するバトンという古のネット呪術を受けたので、紹介していきます。
好きなものについて語るのは楽しいから、ある種のストレス解消として。
この長い夜のおともにでも。


推し1 ChouChou

 ChouChouは二人組の音楽ユニット。
 昔やっていたブログでもいろいろ書いたのだけどなんといってもそのクオリティの高さが、圧倒的だ。クラシックの背骨を持つ硬い旋律、磨き上げられたグラフィック、肌に感じられる音、何をとっても超一流の質感を持っている。
 もともとSecondLifeという仮想空間でアバターを使って始まったグループだったのだけど、次第にそこから離れ、自身のコントロールできるプラットフォームで物理/インターネットを問わず活動を広げている。
 私が感じるChouChouの魅力は、まるで何もかもが終わった後から今を見つめるような、今であるのに時制が混濁する感覚だ。まるで遠い未来から今をいつくしむような、そういう非主観的で主観的な想像力を喚起させる。だから、ChoucChouの音楽を聴いていると、その時に自分が感じている時間と五官からの入力が、まるでアルバムの中のひとひらの写真になったように感じる。今という瞬間が大切な思い出に変わっていく。それがChouChouの楽曲の持つ魔術的な魅力だ。
 特に本当に素晴らしかったのが2018年に開催されたコンサート『oort』。YMAHAによる仮想的な空間(たとえば小さな部屋をゴシック建築の協会のような響きに変えたり)を作る音響システムが全面的に採用されたコンサートで、ヴァーチャルなここではない場所から音楽を奏で来たChouChouに相応しい体験だった。目の前ではじかれるリアルなピアノの音が、リバーブとして四方のスピーカから現れ、電子音が天井から降り注ぐ。ドルビーアトモスのような音場の定位が明瞭なコンサートは、音楽のARで、四人目の推し飛浩隆さんの小説を思わせた。
 このコンサートは建築学会主催の講演だったのでなんと驚きの入場料千円だったのだけど、もしまた開催されることがあるならチケット一万円でも絶対に行きたいし行くべき。

推し2 李琴峰


 李琴峰は私がずっと求めていた小説を書く作家だ。そこには私にとってリアルと感じられる女性たちの生と思考がはっきりと刻印されている。レズビアン女性として社会を生きる中で生まれる思考、個人として生きることの喜びと絶望から生まれる必然的な政治、過剰に繁殖する文字と感情、多重するマイノリティという属性から生まれる違和感が織りなす日常、どのような形であれ女性の人生にかかわる女性の重さ。それは私が切望していたもので、私が感じている日常に非常に近しいものだった。
 自分が表象される、ということは良くも悪くも作品を通して自分と社会の関係性を再確認し自分という主観を眺めなおし人生を変えていく行為につながる。表象されていれば、その表象自体の良し悪しを考え議論できるし公共の場にあれば私たちはその是非を問い自己の存在をめぐる抵抗を繰り広げられる。でも表象されていないという虚無はその前段階の話であり、それは多くのマイノリティが抱えるうっすらとした絶望の根源でさえある、と私は思っている。最近百合なんかの隆盛で少しだけ語れるようになってきたけど、多くの分野に目を向ければそれはまだ小さな掌の中の熾火に過ぎない。私のアーティスト、研究者としての仕事もこの先にある。
 李琴峰の小説の強さの一つは、アイデンテティと社会をめぐって常に、激しい緊張感が継続する点にあると思う。たとえばデビュー作『独り舞』の主人公はレズビアンであるというだけでなく、レイプ被害者のサバイバで、そのことを常に周囲に隠して生きている。それが知られた時の恐怖と拒絶された時の恐怖の記憶に彼女は常に苦しめられるが、これは最新作『ポラリスが降り注ぐ夜』に登場するトランスした女性の、自分の昔の性別がばれるのではないかという恐怖ともパラレルに結びつく。あるいは『流光』の主人公は自身のSM的指向をめぐって恋人との間に軽い緊張関係にある。ここにあるのは自身にはコントロール不能な自身を形成するものと、拒絶であれ肯定であれ自身のそれに対する姿勢と、それが開示された時の社会の反応のコントロールできなさ、という二重の制御不能性から生まれる緊張だと思う。時にそれは喜びの源であり、悲しみを引き起こし、時にそれはただ大きな災厄でしかない。自分自身に決定不能で選択不能なアイデンティティというこの描き込まれた何ものか、李琴峰の小説はそれを的確に抉り出す。
 李琴峰による小説はその荒野に大きな花を咲かせている。いまだにセクシュアリティは小さな領域であり、大きな表現、大きな意義を持たない、と思われている節がある。だけどそんなことはなく、李琴峰の小説を読めば、それはすべての人間にあなたは想像力があるか問いかける匕首であり、人を癒す光であることがたちどころに明らかになる。私たちにはもっとたくさんの良質な表象が必要だ。


推し3 押井守

 今更もう何を語る必要がある?という私の推しオブ推し。前回の記事があんな内容なのでこんなこと書くのが心苦しいけど推し……。推しだから真剣に議論しちゃう( ;∀;)
 えっと、何かこうという感じで悩むのだけど、やっぱり押井監督のつくる画面が好きなのですよね。最近はご本人の興味は画面から時間に移動していてそれもまたいとをかし。身体性にこだわるところも、思想史をもつところもすきだし、何より批評を大事にしていて好き。ゲーム好きなところも好きでまたゲーム連載を持ってほしい。
 後、芸術学的教育を受けた後だと押井監督の考える芸術ってちゃんと美術史教育を受けた人の芸術だなって気づく。本人の芸術に対する賛否はともかく。もはやいろいろ語りたいことがありすぎて何を語ればいいかわからん。出口では色々批判を交わしたくなっても「アニメはジェンダーを語る必要がある」という思いをずっと持ってらしたり、マイノリティに真剣に考えようとしている姿勢(自身のメルマガで一番印象に残ったのはトランスジェンダーの人からの相談だったと語ってらしたり)を入り口として持ってるのはやっぱり好きかな。


 何より本人が可愛い!アイドルでは??


推し4 飛浩隆

 飛浩隆の小説は、多くの場合に人の五官と感性を揺さぶる芸術をモティーフに用いる。彼のプロッティングした文章をインプットすると、圧倒的な五感の情報に襲われる。唇に触れるモノの質感、世界を覆う匂い、肌を叩いて震わせる音。私が普段使っていない感覚──もしかすると存在さえしない感覚──を飛の文章は浮かび上がらせる。 
 同じ手法でもって彼の小説は、私が知らない欲望をす切り取り掬い上げる。創作物に触れるときに起きる感情の波、モノを作るときに理性の底に潜む暗い欲動、飛の小説はそうしたものを見つけ出し、これが欲望だと読者の前にことりと置く。そして、SF的ガジェットを顕微鏡替わりに、創作が持つ暗さ恐ろしさを拡大させ、世界に出力して滅ぼして見せる。
 あなたが普段触れるソレはこんなにも危険でだから魅惑的なのだ、と。飛の小説の魅力は、この態度が生む透徹した批評性にあると私は思う。彼のそうした批評的姿勢がいかんなく発揮されたのが新作『零號琴』だ。『零號琴』は架空の星を舞台にした物語で、その星では伝説の零號琴と呼ばれるナニカがその星独自の文化を生み出したと伝えられる。この文化というのは、AR的な劇であり物語で、そこではウルトラマンやゴジラ、鉄人28号やアトムといった日本戦後的なサブカルチャーへのオマージュがなされていることがわかる。物語が進んでいくと、こうした文化の裏には何かおぞましい事実が隠されていることがわかり零號琴とは世界の構造を生んだ衝撃である、と明かされていく。
 これは明らかに日本戦後サブカルチャーを探求する試みでとなれば、鳴らされた『零號琴』が何を意味するかなどは明らかだ。飛はその姿勢で日本のサブカルチャーの基層を抉り出そうとする。これ以上の詳細は実際に読んでもらうとして、興味深いのはこの『零號琴』の物語を解読していくのは違う星から来た作家であることであり、彼女が零號琴によって生み出された物語にBL的な読みを加えていくことであり、あるいはプリキュアのパロディであるアニメ『フリギア』(この星固有ではない、全人間活動圏で放映されていたアニメという設定)を強引に組み込んでいくことだ。こうしたツールを使って彼女は零號琴から生まれた文化を解体し解読し、その底にあるものを探る。
 飛の小説の面白さはこういう読みが複合的に重なっているところだ。上で描いたことは『零號琴』のほんの入り口でしかない。
 ぜひどこまでも深く彼の小説に潜っていってほしい。『ラギットガール』をはじめとする『廃園の天使シリーズ』ではVRやアバター、そしてAIに関する物語が展開されるし『自生の夢』ではARと言葉が駆動する欲望が語られる。どの物語でもきっと恐ろしい体験ができるだろう。


といわけで推し四人なのだった。

 待って、これ推しを四人紹介する企画ではなくバトンを四人に回す企画なのでは???すべてを書いてから気づいた…

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