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個展 ARによる『グラデーションの美学』のためのエスキース あるいは難病を持つアーティストにとってのポストコロナとAR作品集

個展 ARによる『グラデーションの美学』のためのエスキース を開催しています。

https://www.youtube.com/watch?v=RQd5kCFKqTQ&feature=youtu.be


0. 前説 ポストコロナ的状態とアーティストとしての私

 私はコロナという状況で起きるある種の反応に、少しだけ冷たい見方をしている。もちろん、多くの経済的支援は必要だし、そこで切り捨てる社会には大きな熱い怒りを持っている。それでも、人と会えない、いけない、そういう物理的制約を、まるで新しい状態だとみなす人々に、私は少し冷たいい。
 もちろん私自身こうした状態に困ってる。図書館には行けないから研究はできない。大学の設備が使えないから物理的な作品が作れない。でもそれは、私にとってポストコロナではなく、それ以前から続く日常の中にあるものだった。ある意味でそれは病態の悪化のようなものだ。新しくなく持続している。
 私が持っている病気──慢性疲労症候群とか筋痛性脳脊髄炎と呼ばれる病気は私の体に強い負荷をかけ、常に極度の衰弱状態に押し込める(詳しくはリンク参照)。
 そしてこの病気によって起きる事態は、多くの人にとってのポストコロナ的状態と同じだ。だから、私はポストコロナ的な文脈で何かをしない。私はただ、病人という立場と文脈から仕事を続ける。それはただ、いわゆるポストコロナ的状態と交錯するだけなのだ。物理とPCで作れるものの境、物質へのあこがれとバーチャルの中に閉じ込められる自分、ARやVRを望みつつそこから逃れる身体、どこまで行っても重いこの体。それは私にとってずっと連続するテーマであり、コロナという状況下に回収されるものではない。
 だから、この展示 ARによる『グラデーションの美学』のためのエスキース もコロナだから自宅で楽しめる展示の在り方を提示する、ということではない。それは病室=自室に閉じ込められ続ける病気の身体、具合の悪さという視点からみたもの。それは生理する身体や老いる身体にもつながる視点であり、ポストコロナという滑らかなグラデーションを描く言葉の中の不連続を示す輝点、だと私は宣言する。


1. グラデーションの美学 概説 その表現と思想

 私たちの周りはすごくたくさんのグラデーションに囲まれてる。アイコンはどれも緩やかな色と色のグラデーションを示す。それは00年代にあった質感のためのグラデーションではなくって、ただ平面性を示すグラデーションだ。そこには技術的なモニタの進歩があり、光と透明性で完結する表現の完成があり(印刷を考慮しない)、サイバーとサイケデリックへのノスタルジーがあり、滑らかさに包まれたパッケージへの憧れがあり、そうした幻想で幻覚的な統一に騙されたい欲求がある。
 かつての芸術におけるグラデーションは質感の表現であり、色の帯の表現だった(op artやフランクステラなど)。でも、いま目にするのはただ滑らかであり混ざり合う偽装された滑らかな色の遷移。それはただ色であったり、写真に施されるフィルタだったり、アニメのエフェクトだったりする。
 こういう滑らかで偽装的な表現は、表現だけでなく思想的なものだと考える。それは小さなスマホにちょっとした情報量を加えるごまかしだし、ピクセルとピクセルという概念を、滑らかな統一で偽装する欲望だ。つまり、現実のギャップを色で塗りつぶして均質な何かがそこにあるように思わせる。

 私にとってこのグラデーションの思想で最も喫緊なのは、グラデーションとしての性、という概念だ。特に性教育現場でこの言葉は課題が指摘されつつ分かりやすさからたびたび使われる。たとえば、性別は男女だけではなく、そのグラデーションの中にある、という風に。
 確かにこの概念は、男女という二項を二分せず、多くの性自認と性指向を包み込む。何よりその変動もわかりやすいし、伝えやすい。この考えに救われる人も多いだろう。
 けどそれは分かりやすいが、問題だらけの考えだ。
 なによりまず、両端としての男女はそこで残ってしまう。グラデーションのの中の断絶は無視される。もっと広い権力の勾配は考慮されない。たとえ極を増やしても、それはだれが極を作るのか?という問いを覆い隠してしまう。抽象的な概念は社会的な権力と断絶を覆いつくすし、体験の個別性も何となく滑らかさの中に飲み込まれていき、グラデーションの中で選べない自分という主観性は俯瞰的な構図の中で窒息させられる。
 グラデーションはとても滑らかだ。飴玉のように舌の上で溶けていく。手に持っても引っかからない。


2. ARによる『グラデーションの美学』のためのエスキース 

 こうした問題意識を踏まえて展示 ARによる『グラデーションの美学』のためのエスキース では16の平面作品をARによって展示する。
 展示は四つの会場に分けられる。

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第一展示室( https://kondoginga.github.io/ARex/a3first.html iPhone6以上で閲覧可能)
「グラデーションの現在性」
第一展示室ではグラデーションのの持つ性質と現代性を示していく。
フラットな平面への情報の付与、60年代的なカルチャーとのかかわり、フィルタとしての使われ方それらがSNSやアプリといったテクノロジーを背景にしていることについてが、ここでは語られている。


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第二展示室
「グラデーションとセックス」( https://kondoginga.github.io/ARex/a3secondthird.html )
第二展示室ではグラデーションのもつ思想性に着目し、特にその性との関係を模索する。性はグラデーションとは様々な局面で使われる言葉だ。もとは性をスペクトラムとして考える欧米の理論を輸入したものだが、日本ではグラデーションという言葉で表される。
二分法的なあり方に反抗し、従来は不可視光線だった箇所に注目を促す一定の評価が与えられるべき概念である。

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第三展示室
「グラデーションとセックス?」(https://kondoginga.github.io/ARex/a3third.html)
第三展示室でもグラデーションのもつ思想性に着目し、特にその性との関係を模索する。だがしかし、グラデーションと性という概念は果たして妥当なのだろうか?現在Webで多用されるグラデーションは幻覚的な視覚表現であり、それは滑らかさを偽装する。しかし私たちの生も性も不連続でごつごつしているし、社会にある偏りはゆがんでいる。性にまつわる観念が虚構的であるのと同様、グラデーション的な性という概念も逃れがたい虚構に過ぎない。

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第四展示室 ( https://kondoginga.github.io/ARex/a3forth.html )

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