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渡哲也さんは私の青春でした(1983年生まれ)

渡哲也さんが8/10に亡くなった。

1983年生まれの私が彼を「青春」と言うのに違和感を感じる方も多いだろう。

渡哲也さんとの歳の差は41歳。どこで青春が重なるのか?と。

今回は渡哲也さんの冥福を祈りつつ、私の青春時代に渡哲也さんが不可欠だった話をダラダラと書こうと思う。

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出会いは1996年の大河ドラマ「秀吉」だった。竹中直人さんが秀吉をやったやつだよーと言えばピンとくる方も多いかもしれない。

放送開始当初、私は12歳の中学一年生。

この歳だとまわりは「ジャニーズの誰がカッコいい」だの、「モデルの誰々がカッコいい」だの、そんな話をする女子が多かったものの、私は生まれつきなのか先天性のなんかなのか、「イケメン」と言う概念が分からないという不思議女子だった。

テレビで活躍し雑誌をにぎわす「イケメン」たちを見ても「若い男の子だね」としか思えなかった。

そんなある日。「イケメン」は突然現れた。

竹中直人演じる秀吉、その目の前に現れた渡哲也さま…いや、織田信長。

渡哲也さんは「秀吉」で織田信長を演じていた。

お茶の間で大河ドラマを見ていた私に電流が走った。

なんですかこのイケメンは!

「さる」「おい、さる」と秀吉を呼ぶ渋いイケボイス。

馬を華麗に乗りこなす織田信長…まさに「白馬の王子様」と呼ぶに相応しい超絶イケメン。

これが私に「イケメン」の概念が初めて芽生えた瞬間だった。

この人は一体、誰?

新聞のテレビ欄を確認して、「渡哲也」という俳優さんだと初めて知った。

これが、12歳の私と、当時53歳だった渡哲也さんとの出会いだった(※テレビ画面越し)

しかし、インターネットなど無い時代。「渡哲也」という俳優さんがいったい何者なのか。家にいても何もわからず、私はやきもきしていた。

まず私が向かったのは図書館。(時代…笑)

図書館には蔵書を検索できる機械があるので、「渡哲也」に関連しそうなワードで調べまくった。

1冊だけ、昔の雑誌がヒットした。

現場に急行して雑誌をめくり、渡哲也さんらしき人を確認。きゃーっ、若い頃もカッコいい!

しかし、インタビュー内容を見て12歳の乙女心は硬直した。

これも時代なのでしょうが…インタビュー内容は「初体験はいつか」というもので…

しかも当時「ワイルド系」路線であったであろう渡哲也さんの回答は、12歳の乙女には到底直視出来ないものでした…

(中2の頃に神社の裏手でとか書いてあった…刺激が強すぎますよ…渡さん…)

雑誌のインタビュー内容は見なかったことにして、写真だけしっかりコピーを撮らせてもらい私は帰路についた。

それからは毎朝起きると新聞のテレビ欄とラジオ欄を舐めるようにチェックして「渡哲也」という文字があればソッコーGコードを使って予約をした。(キーワード録画なんて無い時代)

もちろん、ビデオは3倍でなく標準で録画し、録画したものは上書き録画しないように爪を折った(わかる世代だけ分かって)

野球中継が延びて録れて無かったときは野球なんぞ滅びろと心から念じた。

当時大河ドラマに信長役で出ていたこともあって、テレビやラジオをくまなく探すと1週間に1度はなんらかの番組がヒットした。

そこで私が分かってきたのは以下のような内容だ。

・石原軍団という俳優の集まりを束ねている

・焚き火が趣味

・西武警察というドラマが大ヒットしたらしい(ちなみに私は角刈りにサングラスの渡さんは苦手)

・どうやら病気をされたそうで、オストメイト?を使っている?←当時はよくわかってなかった


うん。柔らかい物腰、渋いイケボの中に暖かみのある話し方、

雑誌で見たワイルド系な渡哲也さんはやっぱり偽物で、こっちが本物だな!(笑)

そこで、「ではこちらが若い頃の写真です!」と紹介される写真に、共通点があることに私は気付いた。

「提供:マルベル堂」

マルベル堂って何?

そこにいけば、こんなにイケメンな若い頃の渡哲也さんの写真がたくさんあるの?

また図書館に行って調べなければ…と思っていると、とんでもない所に答えが転がっていた。

母「マルベル堂?浅草のブロマイド屋さんでしょ?」

次の日曜、私はお小遣いを握りしめ、浅草にいた。

グーグルマップなぞ無い時代。

「お嬢ちゃんお煎餅食べてきなよ!」「団子食べてきなよ!」と声をかけてくるオジサンオバサンに、食い気味で

「マルベル堂ってどこですか?」

と聞き歩き、やっと私は聖地に辿り着いた。

マルベル堂…外から見ると、アイドルやジャニーズの子達のブロマイドばかり。

店員さん(レジに1人しかいなかった)に

「渡哲也さんのブロマイドを探してるのですが!」

屈託のない目でそう聞くと

「古い時代のは地下の倉庫室に名簿とサンプルがあるから、その番号を書いて注文してね。一枚300円ね。」

予算が1000円しかなかった私はなんとか三枚、ベストショットを探すべく地下に降りた。

そこにはキングジム的なファイルがずらりと並んでいて

「あ~う」「さ~せ」と言ったように、俳優さんの名前ごとにサンプルの小さい写真が印刷されていた。

「わ、わ、わ…あった!」

そこにはまばゆいばかりのイケメンオーラを放つ、若き日の渡哲也さんの写真がずらりと並んでいた。

私は思った。

「三枚に絞るなんて過酷すぎる!」と。

しかし予算は予算である。

100枚をゆうに超えるサンプルの中からどうにか三枚を選び出した。

レジのオジサンに「こちらでお願いします」と、番号を書いた紙を渡す。

レジのオジサン「プラス100円で缶バッジにも出来るよ?」

うおあああああ

死ぬ気で三枚に絞ったのに!200円オーバーしてまう!

私「缶バッジは…また今度に…します…」

レジのオジサン「作るのに3週間ぐらいかかるから、支払いは受け取り時で良いんだけどどうする?」

三週間後。次の月のお小遣いが既に手に入っている。

私「缶バッジでお願いします」

こうして雷門も浅草寺もスルーした私の人生初浅草が終わった。

三週間後、マルベル堂から「缶バッジ出来ましたよ~」と電話が来て、ついに私は若き日の渡哲也さんの缶バッジを3つ手に入れた。(いやっほーい!!)


さて、ここで私の学校での立ち位置をお話ししておかねばならない。

当時私はいじめられていて、しかしあまり人間に興味が無かったが故にそれをそこまで苦に感じていないという謎多きいじめられっこであった。

考えても見てほしい。

一応、「いじめられっこ」という立場の人間が、突然学校のカバンに渡哲也さんの缶バッジを3つもつけて登校してきたのである(笑)

それまで、スカートは長かった物の(中学入学時の制服採寸で「これから背が伸びるから」と言われ長く作ったが背など伸びなかった)、

ウエストで二つぐらい折って、膝下丈にしていた。

しかし、渡哲也さんの缶バッジをつけた私は無敵だった。

スカートを折らずに解放し、スケバン並のロングスカートにして登校したのだ。

(だって渡哲也さんの時代は長い方が流行ってたって聞いたし!←迷いのない目)

当然、いじめっ子はいじめてくる。しかし、渡哲也さんの缶バッジをつけた私は無敵だった。

「私を悪くいっても構わん。渡哲也さんを悪く言うやつは許さん。」

私の立ち位置は「いじめられっこ」から「ヤバいヤツ」に変わった(と思う笑)

大河ドラマでは本能寺の変で信長が自害する場面でガチ号泣し、こうして信長は大河ドラマから姿を消した。

しかし缶バッジは結局卒業までカバンにつけていた。

職員室の前を通ると

「えっ、あの子、渡哲也の缶バッジつけてる」

と興味を持った先生が話しかけてくれた。

授業を担当してない、話したこともない先生とも仲良くなった。

私の中学での立ち位置は、渡哲也さんが決めてくれた。

渡哲也さんは私の青春そのもの。

御冥福をお祈りします、なんて堅いかな。

ゆっくり休んでください。そして、長く天国で待ってた石原裕次郎さんとつもる話を

お酒でも飲みながら、ゆっくり語り合ってください。おはぎも忘れずに(笑)

さようならとは言いません。

おやすみなさい。


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