「クリエイティブになろう」が「石あつめよう」ぐらいになればいいのに。
すでにみんなクリエイティブなのにな。
僕たちが一般的に使う、クリエイティブなこと、というのは、感性が豊かで、想像性に富んでいる、みたいなニュアンスを含んでいる。
ぼくは、みんな生まれながらにしてクリエイターである、という思想を掲げているんだけど、
でもその一方で、みんなの感性が豊かで想像性に富んでいるような世界観には抵抗がある。
それは「一億総活躍」のように、スローガンだったり、パッケージングのように感じてしまう。
なぜかというと「クリエイティブになろう」と言葉にすることによって、それが逆説的に「現在はクリエイティブではない」ということを前提にしてしまうからなんだ。
しかし、すでにみんなはクリエイターであり、日々クリエイティブだ。
だから、それをクリエイティブなことをする、とあえて口に出すことに、抵抗を感じてしまうんだ。
忘れている、初めての感動
マインクラフトというゲームがある。あれはクリエイティブなゲームだね、というと、けっこう共感してもらえると思う。
マインクラフトは、ぼくたちの生活や文明の歴史をギュッと簡略化したものだ。土を掘り材料を手に入れ加工し、道具を作り出し、仕組みやシステムに発展させていく。
だけど、現実の庭をスコップで掘り起こしてせっせと石を集めていても、あまりクリエイティブだね、とは言わない。
僕たちが、当たり前すぎて気にもとめないことは、初めの感動を忘れているだけなので、それをもう一度、初めての体験したかのよう感じることで、クリエイティブだと認識、実感ができる。
体験時の感動に宿る
クリエイティブというのは、体験したときの感動や驚きそのものに宿っていて、そのきっかけとなる材料の良し悪しによって、価値が大幅に変わったりはしないと思う。
ただ、例えば、同じ「木」を使って遊ぶときに、公園におちてる枝よりも、きれいに磨かれた積み木の方がオシャレにみえたり、クリエイティブに見えたりはするけれど。
仕立てのいい積み木は飾っても楽しいし、素材もいいから安心だ。そこには間違いなく価値がある。しかし、それをつかって「遊ぶ」というクリエイティブ要素に雲泥の差があるかというと、僕は無いと思う。
同じように、テレビゲームの中の積み木のようなヴァーチャルなものでも、そこにはしっかりとクリエイティブは存在すると思う。
もちろん、細かいことを言い出せばきりがない。しかし少なくとも、モノとしての価値はいろいろ違っても、「遊ぶ」ということに含まれているクリエイティブの価値はそこまで変わらないと思うんだ。
驚き、遊び、学び、楽しむ
他にも、こどもの目線になると見えてくることがある。石すべてが宝石であり、小さな魚や昆虫には神秘があり、陽の眩しさや水の冷たさには地球との対話があった。
すべての物事とのコンタクトが驚きであり、遊びであり、学びであり、楽しかったんだ。しかし僕たちは、慣れてしまって初めの感動を忘れてしまっている。
また、便利であったり整ったのものに価値があるというふうに、社会生活の中でそう思い込んでいく。高価なものは新しく珍しく、世の中に無いものは高価である、そういうものでないと感動が味わえないというふうに考えてしまう。
だから、「ふつう」は価値が低いと思ってしまう。「ふつう」はクリエイティブではないと思ってしまう。
そして、普通と違う捉え方ができると、感性が高いといったり、普通と違う考え方を、想像性に富んでいる、という。
そうではなくて、「ふつう」をふつうのものにしてしまっているのは、単に僕らの慣れ、なんだ。
ずっとそこに変わらずある。
星や月は美しく幻想的なまま、ずっと変わらず夜の空にある。
それを特別なことと思わなくなって、夜空を見上げることがなくなってしまうのか。毎日夜空を見上げては、いつ見てもきれいだなぁと思えるのか。
僕の言いたいクリエイティブのイメージは、この「毎日夜空を見上げてきれいだなぁと感じること」なんだ。
こどもの頃には、みんなあった感覚だから、今でもみんな感じられることなんだ。
だからみんながクリエイターなんだ。
その感覚があれば、いつでも目の前にあるものに驚き、遊び、学び、楽しむことができる。
それは、とても自然なことだ。
自然だから、わざわざクリエイティブだというようなことじゃない。けれど、それは本当にクリエイティブなこと。
「クリエイティブなことしよう」というのが「公園で石あつめようよ」とか「夜空を眺めよう」くらいの出来事になって、みんながそれを夢中になって楽しんでいる光景をみたい、と思う。
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