デザインは、お味噌汁。
デザインが何なのか、本当に知らなかったボク。
僕が通った大学は、「芸術工学」という意外と珍しい、デザインを学問として専門に学ぶ大学だった。厳密には芸大ではなく、むしろ工学色の強い大学だったのだと思う。(いまはアート系の学部も設置されている)
高校生の僕は、進学についてあまり真面目に考えてなくて、教養美術とか美学とかが学べる、なにかしら柔らかい感じの進学先を探していたのだけど、どうやら家から通える範囲に芸大があるらしいという理由で、受験を決めた。
学科はファッションデザインにした。理由は消去法で、他の学科に興味が湧かなかった。かといって、ファッションデザインも、自分がしっている美術の分野とはかけ離れていたので、デザイナーやモデリストを目指して入学した同級生の意識を考えると、いまは恥ずかしい気持ちにもなる。
僕は、好きで絵はたくさん描いていたけれど、中学高校と合唱部に没頭していて、そんなに美術に詳しいわけでもなかった。なので、ことさらアートとデザインがどう違うかなんて知らなくて、つまり「絵」と「図」がどう違うかも、わかっていなかったのだと思う。
芸大と思って入ったものの、必修科目では、染料や繊維の勉強から、製図やマーケティングなど、かなり予想と違うことになる中で、ますますデザインがわからなくなっていく。
お味噌汁
そんな中、「ファッションデザイン概論」という授業があった。それぞれの教員からみたファッションデザインを語るオムニバス形式の授業の中で、薄い色の眼鏡をかけた高齢の教授が、落ち着いた小さな声で話したこと。
お味噌汁。デザインというのはね、おかあさんが毎日作ってくれるお味噌汁ありますね。具は何にしようとか、どんな切り方にしようとかね。デザインとは、まさにそういったものなんですね。
このとき直感的に、ああこれなんかすごい大切なこと言ってる気がする、と思った。けど、それが差しているものがはっきりとは見えなかった。実は、この先生は、ほどなくしてご病気で亡くなられてしまったのだけど、開学の際に多大な貢献をされた先生だった。
この、「デザインとはお味噌汁をつくるようなもの」というの話は、僕のこころにずっと残っていて、そうして、20年以上もかけて、その存在感を増してきている。いま自分が人にデザインを説明するときにも、もっとも自分の考えに近い表現のひとつだと思う。
それは
生活に根付いた文化であること
誰もができることであること
思いやりや気持ちを込められること
人によって様々な工夫ができること
完成ではなく調和が大切であること
そんなふうに言っているように思う。
デザインの概念は泳いでいる。
僕にとってデザインとは、人のいろんなクリエイティブな行動の中で、きもちの持ち方によって生じてくる工夫のやり方とか、調和のとり方なのかなと思う。
今日は、どんなお味噌汁にしよっかな。
そのときに考える、いろんな具材の組み合わせ、ふるまう相手、季節、今日一日の過ごし方など。
そういった生活文化と人々のきもちが調和する中に、デザインという概念が、ひろくあまねく、泳いでいるような気がする。
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