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考えすぎの日々学究ノート

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日々の考えすぎな考えごとを綴ったノート。
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2017年6月の記事一覧

結局、本音ってなんだろか。素直に言ったり訪ねたりすると「そんなこともわからないのか」とか「人の気持ちがわからないのか」とか言われてしまうんだよ。

もちろん礼節の範囲があるのはわかるよ。ただ建前ならば「ハッキリ言え」とか「思ったことを言え」とか言うのやめてほしい。

ただ、寄り添い
ただ、話をして
ただ、居られる場をつくる。
それがいかに難しく
経験や体験が必要なことかは、
あまりわかってはもらえない。

「〜するのがふつうなのに、なぜできないのか」と言われたら、その人の考えが基準で、それにあわせろ、ということだと思うんだけど、それに対して「僕の基準はそうじゃないから、合わせられない」と言ってしまったら、僕も「僕の基準にあわせろ」と言っていることになっちゃう。モヤモヤする。

いやだなぁと思いながら、心身を壊すくらいなら、もう、いいから逃げましょう。

それが耐えれるもんなんだったら「いやだなぁ」なんて思わないんだよ。

心身を壊す原因は「過酷だから」ではなくて、「いやだから」なんよ。

「自ら考えて問題を発見し、課題解決のために行動できる人材を育てる」文科省の教育方針だ。アクティブラーニングやCOC事業も有意義だが、社会との関わりに重きをおいても教育は人をひっぱれない。

「国民が学ぶことを楽しみ、好きになる教育をする」と、そんなふうに掲げればいいのに。

世の中に「つまらないもの」はない。それをみている、自分の視点がつまらないものにしてしまっているんだ。
物事は、万物が万物に否応なく繋がっていて、そのつながりに思考を馳せるのが「考える」という、人の持つ叡智なのだから、つまらないつまらないといっているのは、今世の無駄遣いであるよ。

晴れていたら「気持ちいいね」
雨がふったら「楽しいね」
曇り空は「面白いね」
風が吹いたら「爽やかだね」

と、言ってみよう。

それだけで、この世界がとても
美しいことがわかる。

「気づき」というのは、その人にとって必要なタイミングで出会う。そこでなんらかの「気づき」を得たら、次の瞬間からは、とたんに「当たり前のこと」に感じる。

だからこそ、他人の気づきを安易に批判してはいけない。それは昨日の自分かもしれないのだ。

自己表現、自己実現と言いながら、本当は認められたいという気持ちが強いひと。
楽しいからやりたいではなく、
見返したいからやらなきゃいけない、
と思っている。

辛口に評価されようものなら、相手を滅ぼす勢いで罵倒してくる人もいる。何を原動力にしているのだ?それは死神との契約か。

【運命のこと】未来は偶然として訪れるけど、過去を振り返れば、あれは必然だった、と思える。よくよく考えるとそりゃ当たり前。経験したことには「意味」をつけられるからだ。

ひとは、後から「意味」をつけられる。
これは「屁理屈」とは違う。意味を見出すちからが運命を必然にするんだ。

本を読むと「みんな言ってることが違うから困る」と文句を言っている人がいるけれど、正解が世界でひとつのわけがない。

たったひとつの正解が本に書いてあるなら、誰も苦労しないのだから。
それぞれにとっての正解を探し出すために、そのいろんな「言ってることが違う」に出会うんだよ。

答えが見つからず不安になる時に、あれこれ現状を否定してしまうのは「信じられないくらいなら否定してしまおう」ということなんだ。でもたいていの答えは霧の中にある。探すのを「あきらめる」なら英断だけど、「答えはみつからない」と言い聞かせるのは、探すこと自体がイヤなだけなんだ。