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考えすぎの日々学究ノート

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日々の考えすぎな考えごとを綴ったノート。
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2016年9月の記事一覧

星や月を見て、虫の声を聞いて、綺麗だなあと言えること。それは命あることの素晴らしさ。そして、それは僕たちが生きている地球という星の出来事であり、宇宙から見れば塵のように小さな惑星の儚い命でもあること。それを文学で、数学で、様々な学問の視点で語るのが教育じゃないかと思っている。

一回出た言葉は、戻れない。自分の世界に影響する。

僕らはことばで意思伝達するから、自分の人生は言葉で決まる。だから論理と事実は大切だ。

文字であれ声であれ、感情的になって理のない乱雑な言葉をつかったら、その通りに世界は変化していく。

それに文句をいうことはできないんだ。

ゆとり世代の後に、悟り世代という言葉がでてきて、そんなに流行らなかったけど、その悟りって、ただ人生に意味を感じられないということで、悲観的に、楽観的にあきらめている人のことだよ。

本当に悟っていたら悲観も楽観もないよね。ただここにいる事実だけで完ぺきなんだよな。

池上彰さんだと、週刊こどもニュースでの経験が、いまの役割を支えていると思うし、林修先生も予備校講師としての経験がそれにあたるのだろう。

どういった人たちで、何を知りたがっていて、何を求めているかという、そのターゲットとのマッチングによって「概論の専門家」になるのかな。

昨日「概論を専門にしたい」と思ったときに、そうすると結果的には、伝え方とか工夫とかが専門になるのだろうかと考えてみた。
しかしそれは、ある専門分野の中で、伝え方や仕事のやり方に大きく比重を置く、ということになるのかもしれないな。
または、単に誰に伝えるかという役割分担なのか。

昨日と今日は商業高校での授業でした。

教科書なんかを読むと「概論」というのは説明するちからが試される分野だなあと思う。

真っ芯を伝えられれば一言で済むのに、くどくど伝えると、好奇心を無くさせてしまう。

だからやりがいも感じる。「概論が専門」という研究者になりたい、と思う。

僕は福祉事業所におけるデザインコンサルをする傍ら、現場の支援員に近い立場でも事業所や地域の部会等に関わっています。

その視点から見ていて我々コンサルのアドバイスは「やってる暇ない」「決裁がとれない」「現場のやり方を変えられない」というのが正直なところでしょう。気持ちわかります。

障がい者の自立のために、この賃金を上げていこうという事で、行政は10年前から政策でもって現場支援をしています。

しかし、ものをつくったり販売したりというのはプロでもたくさん失敗します。

福祉という体制に最適化された現場にマーケティングや産業システムはなかなか馴染まないんです。

福祉サービスはその種類によって事業内容が分かれますが、人の生き方ですから紋切りにはできません。

仕事場、居場所、創作、訓練の場であったりと様々な側面が混在します。

制度というのは、公平ゆえに全員に恩恵があるけれど、公平ゆえに個別の対応ができないという二面性を持っているんです。

いわゆる「作業所」や「授産施設」ではたらく障がいを持つ人の賃金は、最低保障が月3千円、平均が月1万円前半代です。
もちろん人によって増減します。

これは良い事でも悪い事でも由々しき事態という事でもなく、「現在地」として、できるだけ多くの人に知っていただきたい数字なんです。

人は「地球のために」と言うけれど

人が滅んでもいいから地球は大切に。
ならわかるんだけど、
人が生き残りたいから地球を大切に。
なんだったら、全然エゴじゃん!

と思ってしまうんだよ。
大切にしようと思うのは、素晴らしいことなんだけど、なんかひっかかるんだよ。

国内なら、名古屋の栄から大須が好きだなぁ。あと東京は町田と下北沢好きなんだよなぁ。京都は北山かなぁ、平等院も好きだなぁ。大阪は難波から心斎橋だなー。

神戸は、いまはどこがいいだろう?乙仲通りの西側界隈とか、鯉川筋とトアロードの山側あたりが、おもしろくなりそうな気配がするよ。

行きたい海外の場所とか、自分が興味をもつ歴史とかは、過去世(前世)が影響してるっていうよね。

なんか僕は前世が地球じゃないらしくって、それであんまり海外に興味が持てないのかも。

宇宙旅行時代までお預けか。。。

まだ海外に行ったことがなくて、そろそろ経験したほうがいいよなぁとは思うのだけど、正直なところ、行ってみたいと思う場所がなくて。

海外に行くことは純粋に遊びにしたいなと思う。新鮮な刺激であって、自分探しとかじゃないと思うんだ。お釈迦さまは海外旅行で悟り開眼したわけじゃないし。