映画の感想「ヒューゴの不思議な発明」

映画の感想です。自分用のメモとして走り書きしたものなので、読みにくいかもしれません。
完全ネタバレありなので、ご注意ください。

映画の原作はこちら↓

忘れられた存在

主人公ヒューゴは、駅構内にある時計台のネジを巻くという仕事をしているが、その仕事は叔父のクロードがやっていることになっている。だから、ヒューゴは、社会を動かす歯車の1人として世間に受け入れられてはいない。孤児院に送られることを恐れてこっそりと生活しているので、孤児として認識されているわけでもない。ヒューゴの存在は、無いものとされている。
映画の中で、ヒューゴは、「壁の中の人」として描かれる。駅構内を行きかう人々には、壁の向こうは見えない。まるで透明人間のような存在と言える。
ヒロインの少女イザベルが、路上でころんで、通行人に踏まれるシーンがある。面白い視覚表現だと思った。まるで、イザベルが地面の下にいるような表現。あの瞬間、通行人はイザベルを存在しないものとして扱っている。存在を認知されなくなった時、人は壁や地面の向こう側にいるようなもの、ということなのだろう。
実際のジョルジュ・メリエスの後半生も、人々に存在を忘れられた状態だったらしい。

映画史を見ると、1890年代、当時の映画は街の風景や人のパフォーマンスを撮った映像を上映するだけのシンプルなものがほとんどだったのに、メリエスはトリックを駆使したイリュージョンのような映画を作っている。当時の実際の事件を題材にした物語性のある短編映画もいくつか作っている。1903年に「月世界旅行」が大ヒットし、それをきっかけにして、他の映画製作者たちも物語性のある映画を作り出したようだ。当時、メリエスは社会や映画界にすごい影響を与えていたのだろう。
だけど、1910年代後半に入ると、メリエスは忘れられてしまう。その頃の新しい映画監督としては、D.W.グリフィス、セシル.B.デミル、チャップリンなど。人々が映画を見るようになって20年くらい……、20年もあれば、人々は映画に慣れて、写真が動くということを普通に受け入れられるようになる。だから、映像というイリュージョンを見るというより、映像を通して物語を見るようになる。メリエスの映画は時代遅れの感があったのかもしれない。

世の中から存在を忘れられたメリエスは、主人公ヒューゴの境遇と呼応しているように思える。

人の役に立つこと

歯車のいっぱいある機械仕掛けの街のイメージは、社会を動かす歯車としての人間のイメージを起こさせる。
歯車は、何かの役に立つために、機械の中に組み込まれている。役に立たない部品は取り除かれる。
映画の中では、「何かの役に立つ」ということが存在理由のように描かれている。
叔父のクロードが死んだのも、ヒューゴが代わりに仕事をやっていたから、クロードは不要な歯車として機械から取り外されたということかもしれない。
片足を負傷した公安官も、軍人として役に立たなくなった自分に劣等感を持っているようだ。
メリエスを描いた映画で、なぜ「役に立つこと」がテーマになるのか、その連想過程は、
 メリエス → メリエスの劇場で披露されていた機械人形 → 機械人形は歯車がいっぱい → 歯車はすべて役に立っている → 社会と人間の関係も同じ?
という感じだろう。

その他

■ スコセッシ監督の初の3D映画
3Dは、まさにイリュージョンだ。 イリュージョンの映画としてまっさきに取り上げたい人物として、メリエスを扱ったのだろう。

■ その他
予備知識なしに見たので、ジョルジュ・メリエスの名前が出てきたときは、「おぉ」と思わず声が出た。

機械人形の描いた絵がうますぎて、えっ?ってなった。ナイナイ……

ジョニー・デップが出演したかったらしい……、確かに、好きそう。

放題が変だな、ちゃんと映画みたの?って言いたくなる、ヒューゴが発明したのって、最後にちょこっと出た公安官の足の機械だよね。

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