佐々涼子さんの作品は、良質な映画のようだ


佐々涼子さんへの追慕の文章を続けさせていただきたい。
佐々さんの書は、これまで私が出逢った作家の作品と違っていた。強いていえば、中学生高校生の時に読んだ下村湖人さんの「次郎物語」に一番似ている。

どう形容していいか分からなかったが、今日1つ思いついた例えは、まるで良質な映画を観ているよう、というものだ(陳腐ですみません)。

対義としての形容「YouTube」のよう、を挙げたい。YouTubeは役に立つ。しかし良質な映画は、YouTubeには絶対持ち得ないものを持っている。

YouTubeは情報である。情報であるがゆえにノイズ(Noise,雑音)を可能な限り排除しがちである。番組中、ずっと無駄なく情報を流し続ける。そして、今日明日にすぐに役に立つ情報で満ちている。
Youtubeは誘導的である。そして商業的である。

医療関係者の書く在宅医療本はYouTube的である。私も「往診屋」という本を出させてもらっている、幻冬舎メディアコンサルティングという出版元は、在宅医療、精神医療等を積極的に取り上げている。どれもカタログとしては良い。しかし、感動はしない。

医療者の書く在宅医療本はたくさん出ているのだが、どうしても在宅医療を誘導しているように見える。「入院医療なんかより在宅医療が良いので勧めますよ」と言っているように思えてしまう。実際にはそういいことばかりではない。何よりも医療者の書く在宅医療本を、読んで泣くことはない。

佐々涼子さんの「エンド・オブ・ライフ」はこれと対極にある。全く誘導的なところがない。商業的なところがない。
在宅医療の深いところに触れているが、それは決して在宅医療を美しく飾ってはいない。
何も提案はしていない。ただただ、こんな生き方があるのだ、とまるでその場に居るかのように描写される。

エンド・オブ・ライフは、一節一節が決して情報ではない。人生の一コマである。他の人の人生の一コマを体験することは、ある種のノイズを伴う。しかし、とてつもなく豊かなノイズである。

そして、自分の体験と強く結びつく。全く同じ体験ではないにしても、あの時自分はこうだった、こうすべきだったかも、という思いを引き起こす。涙が出る。
良質な映画を観るように、私は佐々さんの本を読ませていただいた。

これからも読み続けます。ありがとうございます。

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