見出し画像

医学生のころの患児の家族のための滞在施設でのボランティアの経験が今の自分にどう影響しているか

私は医学生のときに、ドナルド・マクドナルド・ハウスという病気の子どもとそのご家族のための滞在施設(以下「ハウス」)でボランティアをしていました。

私がハウスのことを知ったのは、確かハウスとボランティアサークルの立ち上げから数か月~半年くらい経った時期でした。

上京する直前に東日本大震災が発生しました。大学生で自由な時間もでき、親元も離れ、ボランティア活動なるものに関心を抱いたのですが、今思えば怖い気持ちもあったのでしょう、被災地には結局行けませんでした。

そんな自分にうしろめたさもあったので、大学病院にハウスが併設されたニュースに目が留まったのかもしれません。

ハウスを初めて見学したときの印象は、とてもあたたかい場所であるということでした。もちろん利用者の方が第一なのですが、ボランティアさんにとっても居場所となるような、そんなあたたかい場所でした。未熟だった私が細々と活動を続けることができたのは、ハウスマネージャーさんをはじめとする皆様の懐の深さがあったからに違いありません。

色々な思い出がありますが、今回は現在の自分にどう影響しているかという点について振り返りたいと思います。

まず卒後の診療科として小児科を選びたいという気持ちと期待もあったと思いますし、当時は総合診療科と小児科でかなり迷っていました。小児科の教授の先生にハウスの活動でも大変お世話になっていました。

総合診療科でも小児はみれるし、私の関心はsocial determinants of healthであり、全人的医療であるため、、と総合診療科を選択しました。
(結果として、小児は研修のとき+後期研修までのERで診療にとどまり、今では総合内科で大人ばかり、ERも小児科の先生が診療されるので診る機会はなくなってしまいました。)

プライマリケアは必要だけど遅れている学問、という認識が、大学病院の中でもまだ根強かったと記憶しています。

それでも、プライマリケアのBPSモデルでいうSocialな部分をハウスで学んだことが、総合診療への魅力を感じた原因だったと思います。ハウスで学んだのは病院の中の「医療」だけではない社会的資源、ハウスであったり、ボランティアであったり、あるいは患者さん自身だけでなくご家族(ご両親やご兄弟)のサポートであったり、そのようなさまざまな存在や人とのつながりが医療を支えているからこそ病院の医療は成り立っているということです。しかし、その「力」を裏付けるエビデンスが弱いという課題にも直面していました。(当時ハウスの支援を広げるために様々思案しましたが、正直活動を維持するのが精いっぱいでした。自分の力不足でサークルのメンバーの皆様には迷惑をかけたと思います。今もなおサークルの活動が継続しており、とても尊敬しています。)

自分自身も人のつながりの大切さを実感していました。親元を離れて学生寮での共同生活を始めていました。上下関係が強く、昭和の価値観が残るような寮で、システムとしては令和の時代には受け入れがたいような風習もありました(在寮中にかなり改革が進みました)が、個々の寮生の先輩方、同期、後輩達は素敵な方が多く、人とのつながりで私は様々なことを学びました。

私が医学生のころはちょうどイチロー・カワチ先生の和書が出版されたり、近藤克則先生の健康格差についてのNHKの特集が報道されたりするなど、健康の社会的決定要因が注目を浴び始めたころでもあり、「人のつながりが健康に寄与すること」についてエビデンスを作れるような人になりたいと、医学生を卒業したころにぼんやり思っておりました。帝京大学の短期集中講義に潜ってイチロー先生の講義を聴いたり、公衆衛生の学会に潜って"advocate"という言葉をしきりに耳にしたりしていました。
選択実習でハウスのことを質的研究として発表させていただきました。
当時ご指導いただいた先生には、医師になった後の進路選択も含めて大変お世話になりました。

SPHにいつか進学したいと思って公衆衛生分野の先生方とお話させていただく機会もありました。まずはMDとしての立ち位置を築いてからがよいのでは、というご意見をいただき、総合内科でトレーニングを受けた後にSPHに入ろうと思っていました。

医師として臨床現場に入ると、予想通りかそれ以上にハードな環境で、心身は容易に摩耗していきました。それでも、高校時代の同期と再会したり、新しい同期も素敵な人だったり、ここでも仲間とのつながりでなんとか乗り切ることができました。

総合内科の後期研修がハードであり二の足を踏み、糖尿病内科も検討したのですが、総合内科の先輩に熱心に誘っていただき、総合内科ローテーターとして後期研修を継続しました。後期研修はさらにハードで病院のソファに横になったまま疲れて寝てしまい、気が付いたら朝を迎えることもたびたびありました。ただ自分に主治医として与えられた裁量も大きく、やりがいを感じ、患者さんのためにと一番頑張ることができました。そのためか、このころに診療させていただいた患者さんからたくさんお手紙をいただき、大変嬉しく光栄なことと思っています。今も大切に仕舞って、時々読み返しています。

想像を絶する悲しいわかれもありました。なぜ何も話しかけられなかったんだろうと今でも思い返します。

まさに医学生から医師となりphysician's well-being, burnoutについて考えさせられる時代でした。

同時に、ハウスでのボランティアや学生寮での経験を医師として生かしたいと思っていたのに、その生かし方がわからない(学生寮の一芸披露の風習のおかげで病院の宴会芸を「やり切った」ことでウケがよかったくらい)ことに少しもどかしさを感じていたのでしょう。

いわゆる「意識高い系」だったはずなので、学会発表、ケースレポートのご指導をいただいたり、研究の集まりや勉強会、論文抄読会にも積極的に参加したりしました。ただぼんやりとした自分の思いと、自分が今手がけていることへのギャップが大きかったのだと思います。また、臨床の比重が高く外来も毎週30人を超えるようになってきて、ER当直と病棟当番でしばしば眠れず明けもフルタイムで仕事というライフスタイルに体力の限界を感じたのもあるかもしれません。あるいはつらい出来事を思い出してしまうので外に出なければいけないと直感的に感じていたのかもしれません。

一番はSPHに進学して、エビデンスの作り手に回りたい。臨床研究のセミナーやワークショップを見つけては参加していました。現在のメンターの先生とそこで出会いました。物腰が柔らかく、私ならできる!ととても前向きに励ましてくださいました。先生の偉大さに気づくには時間がかかりました。

SPHに進学し、現在の職場に移り、研究日をいただけるようになり、私は臨床研究者としての道を歩み始めました。

RQが臨床研究で最も大切だ、と口を酸っぱく教わりました。どんな問いを立てるか?アイデアがよければ、方法はあとからついてくる。予算がなくても、(臨床をしていて)時間に制約があっても、世界とも戦える臨床研究ができるようになる。そう感じました。

ここで私がしたいことが何なのか?どんな問いに答えたいのか?学生のころぼんやり考えていたことが臨床経験を経てどう変わったのか?変わっていないのか?それを漠然とした疑問からRQに昇華させるにはどうしたらよいのか?なぜ総合内科を選んだのか?総合内科の専門性とは何か?総合内科のエキスパートは今何を考えどんな出版物を出しているのか?・・・必死に考えました。

むさぼるように論文を読み、先行文献をあさり、自分が必死に出したRQが解決されているor RCTでもしないと解決できないことを知って絶望し、発表の期日は迫り、ロジカルかつ的確なコメントとフィードバックで落胆し・・・繰り返しているうちに自分が本当に何がしたかったのか?臨床がきつくて研究が甘い蜜に見えて逃げてきただけではないのか?臨床も中途半端なのになぜ研究に手を出すのか?それが本当に患者さんのためになるのか?自問自答すると暗くなり、先が見えず、つらい時期がありました。半分今もそうかもしれません。

また、研究について少し理解が深まり、トップランナー達が何をしているかわかるようになると今の自分との圧倒的な差に愕然とします。RQの精緻さ、データの量、質、高度な手法、ネットワーク、、、悲しくなるくらい足りていません。

総合内科をしていると自分が優しいヤブ医者なような気がしてきます。
診断学のスペシャリストにはなれない、誤嚥性肺炎や感染症や膠原病のexpertiseもない、在宅はしておらず病院総合内科をもっぱらしている、そんな自分に専門あるいはspecial interestと呼べる分野が生まれるのだろうか。

Social Determinants of Healthについても普段はMSWさんや看護師さんに頼っている部分が多い・・・病院の一介の医師がSDHについてできることは何だろう・・・思えば思うほどモヤモヤしてしまう。

ただ、ハウスで学んだこと、目の前の患者さんだけでなく、「患者さんを支える人」を支えることも大切という視点を小児医療、高齢者介護だけでなく、一般に拡張したら・・・

人と人とのつながり。基本は1対1であるもの。
点と点がつながりそうで、まだうまく言語化できていない。
石にかじりついて10年頑張ろう。それでだめなら、あきらめよう。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?