雑な記録。それは雑記。

そういうことである。
いつものことであって、わたしがつづる文章をAI先生に突っ込むと、下記の類のテンプレ回答が数秒でしゃあしゃあ返ってくるのである。そして、いくつかのトピックの組合せがあれば万人に対応できると設定されておるのであろう。わかっておるぞ。

「複雑な文章構成や繰り返し語られる内容がありますので、もう少しわかりやすさを意識して書きましょう。起承転結を意識して書くと、言いたいことが読者に届きやすくなります。また、文章の主題はひとつに絞ることがたいせつです。ほんとうに言いたいことは何かを一度自分の中で整理することによって、わかりやすい文章作成につなげることができます。言いたいことが複数ある場合は、それぞれの事柄を章立てにして、順番に展開することも、たくさんの読者へあなたの文章をとどけるために有効な場合があります。」

しらんけど。ふはっ。


わたしは普段、自分の考えをちょっと整理するためにメモをとっているので、他人からみたわかりやすさを意識することはない。言葉の選び方をわざわざ意識しないし、構成はなおのこと意識しない。つまり推敲もせず書き散らしているのである。雑談とプレゼンテーションは違うのである。そして雑談よりもっとくだけた独り言に、気を遣う必要がどこにあるのか。誰に気を遣っておるのだ。そんなことを考えてしまうのであった。


「アイデアの尻尾」という言葉を僕はときどき使いますけれど、たしかにそういうものがあるんです。「それ」が目の前をすっとよぎったときに、すかさずぱっとつかまえる。

内田樹 「内田樹による内田樹」

そういうことは、あると思う。わたしは午前8時から10時までの間にふとしたアイデアが、自分の思考と関係なく浮かぶことがちょくちょくある。仕事中に集中できず困ってしまうことがある。仕事は仕事でちゃんとしているのです、たぶん。打合せ中だったりすると、これは困る。会議の10分前に準備をしているときだとなお困る。
そうして、夕方になって帰宅する時間に「そういえば午前中に、あれおもしろいと思ってたけど、はて何やったかのう」となるのがたいていのパターンである。仕事をしているのだもの、仕方ない。仕事が優先である。あははん。尻尾はどこやら消えてしもうた。そういうことである。

そんななか、情報弱者のわたしが何気なく時間を過ごしているうちに、アイデアの尻尾をつかんだとしよう。そのアイデアをもとに文章を書くにあたって、誰かの存在を思い浮かべることがある。「この文章は何処の何某さんに読んでもらいたいものだ」と具体的に宛先を絞って文章を仕立てるのである。現実世界で知り合った人かもしれないし、noteで知り合った人かもしれないし、それはさまざまある。
それは文章を書いている途中に思うのではなくて、なにかアイデアがふわり浮かんだとき、アイデアの尻尾をつかんだときに「これを文章に仕立てると、あの人が面白がって読んでくれるんじゃないかなあ。えっへっへ」と勝手に思ってしまうのである。もちろん「この文章はあなた宛のものです」と本人に伝えたことはない。その人が実際に読んだかどうかもわからない。けれども、そうやって仕立てた文章には、なんというかほかのものに比べて質量感があるように思う(当社比)。

わたしは勝手にそうおもっているのだけれど、アイデアを元に継続して創作しながら毎日を過ごす、となると本業のもの書きというのはとてもエネルギーの要ることだと思う。何も予備知識がなくってもその文章に読者を引き摺り込んで最後まで案内してしまう、そういう人がもの書きなんだろう。創作を次から次へと書ける人が居るけれども、わたしにはそういうことは到底できない。やろうとするとまず、本当に時間とエネルギーと忍耐が要ることであるなあ。