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僕らは矛盾の中に生きている

Shihoさんのことばをお借りして。

僕らは矛盾の中に生きている

半分は「そうだな」と思い、半分は「そうかな?」と思う。この言葉を直感的に捉えたときにそう感じた。

それなりの時間を生きてきた人間として、世の中に見える割り切れなさを飲み込んで過ごしていくのは、ある種の処世術ともいえる。あるいはその手前の段階で割り切れなさに気づきつつ見ないふりをして生きていくやり方もある。そういう事柄があちこちにある中、生きている。だから、僕らは矛盾の中に生きている。そうだな、と思う。

その一方で、自分の考えの及ぶ範囲がどれほどなのかを冷静にみてみると、ほんのちっぽけなものにすぎない。少なくともわたしはそう思う。自分の見える範囲なんて、たかが知れている。自分の理解できる範囲で感じる矛盾なんて、もっと物事をまともに理解している立場からみたら矛盾でもなんでもなく当たり前のことなのかもしれない。
それは初めて光の性質を知ったときに「光は波の性質を持っており、かつ粒子の性質も持っている」という事実を受け入れられなかった体験や、数学における無限の濃度を説明されたときに目を丸くした体験があるからかもしれない。自分が理解できないことが世の中には数えきれないほどあって、その理解できない事柄をいちいち"矛盾(という割り切れなさ)"と捉えてしまったら、ちっぽけなつまらない世界に自ら閉じこもってしまうことになる。
直感的に「矛盾するかもしれない」と思うことであっても、単純に自分の理解が足りないためにそう考えているだけかもしれず、だとすると、僕らは矛盾の中に生きているとは言えないのかもしれない。




「僕らは矛盾の中に生きている」という表現は、現状から抜け出したい切実さが感じられる一方で、どこか詩的な響きを持つ。その原因は「僕らは」という人称のとらえ方にあるのではないか。

僕、あるいは僕ら、ということばのえらび方。

そこには「突き抜けた自由さへの憧れが託されているように見える」(穂村弘「短歌の友人」より)。自由のニュアンスを含む表現を矛盾という言葉にぶつけることで生まれる波紋。それが心に届いたとき自分に問いかける人もあるだろう。
自由とはなにか。わたしは、自分の心に引っかかりを感じない状態だと理解している。心に引っかかりを感じない融通無碍な自分を思い描くのは今そうなってないからなのだけれども。そういう世の中に時には絡め取られながら「それも人生だよ」と大人ぶって生きていく。時にはそよ風に流し目をやるように世の中をいなして生きていく。