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濃度とか密度とかいう単語で表現される前段と、本題

相も変わらず何もかんがえていないのである。しかたのないことである。
本題は一番最後にあって、いつもどおりであった。

前段

 文章にも心地よい濃度があって、さきほどネットでちょっとした記事を見たのだが、表面的なことの羅列でどうにも面白くはなかったのである。

 情報を得ようとする場合は、その密度がある程度以上のものでないと意味をなさない一方で、創作の場合は読み手が息継ぎをする余白がないとどうにも苦しくなる。


 文章であらわすものによって、適切な濃度あるいは密度があるように思われてくる。たとえば珈琲なら、浅煎りから深煎りまで、粗挽きから細挽きまで、それぞれの美味しい飲み方やひとびとの嗜好がある。

 それはまったく個人的な感覚であって、いいとか悪いとかの問題とは異なる軸で捉える必要がある。
 文章に立ち返ってもう少し考えてみると、個人感覚の集積である世間においては「こういうものが読まれる」であるとか「こういうものがウケる」であるとか、そういう不文律があってもおかしくはない。


 西村賢太や車谷長吉を読んで窒息しそうになってそれでも読むのをやめられず、司馬遼太郎からは読み進める爽快感を感じてやっぱりやめられなかった。澁澤龍彦に知の深さを垣間見て、三島由紀夫には日本語を組合せた精緻なモザイク画を感じる。谷崎潤一郎の作品はところどころ無声映画にも思え、新田次郎や吉村昭の作品のなかにはニュース映画を感じるものがあり、村上龍はもっと現代的な手法で撮ったドキュメンタリー映画のよう。川上弘美には「微分」の気配、静けさの中にそっと舞い上がる塵を見逃さない眼差しがあって、安部公房の無機的な描写はその層が誤りなく重なってきたはずなのに、どこからか帰り道を見失う。そういうわたしは橋本治のくどさを丹念に追っていってめんどくさがり、山本七平の文章を行ったり来たりしている。

 本棚には「あれも読んだ、これも読んだ」というものではなく「もう一度読んだら違う景色が見えそうだ」と思うものだけがある。その割に少しずつ本が増えていく。読書量は決して多いとは言えない。むしろ少ないと思う。あの作家もこの作家も知らない。書店に行っても名前しか知らない作家ばかり、海外のものなんて、両手で足りる数くらいしか読んだことがない。

 文学作品についてはそうかもしれないが、それ以外の教科書や文献にはそれなりに接してきていて、それが文学作品を読む助けになっていると思うことがある。作品から得られた感覚、感じた密度をいくつもの切り口で言語化できるようになりたい、とは思っている。


 感覚を言語化するにあたって最初に接したのはソムリエという職業であった。視覚、味覚と嗅覚からワインの素性を理解し、他人がわかるように説明する。みため、味わいやにおいそれぞれから得た印象を、一定の座標軸にあてはめてプロットし、そのプロット結果から、記憶にあるデータやお手本と照らし合わせていき、自分のワインの地図を拡げていく。そうして自分の地図がある程度の信憑性を持ってきたな、と思ったところで新たなものにチャレンジしていく。
 ソムリエの語法は、言葉にならない感覚を言葉に乗せるにあたって既存のイメージを借用するものである。任意の表現を持つ言葉単体では類似性がそこそこのものであっても、そういう言葉を異なる角度からいくつか組み合わせることで、対象の焦点を絞っていくことが可能になる。

 わたしが自分なりに学んだことはその程度のことであって、それは日本の至るところをバイクで走っているときに応用された。五感で感じるものを言葉に落として自分なりに解釈すること、それはどういう感覚なのか、たとえば極上の体験をしたとして、それをいくつもの言葉に振り分けて自分の記憶の棚にしまっておけば、あとからそれを取り出して楽しむことができるのではないか。少なくとも忘れるということはしないだろう。

 五感を自分なりに解釈するにあたって、いくつかの手がかりを必要としたけれども、詳しく説明できるようなものは無い。自分の願望とは関係なくみずからのなかへ深く潜航する(世間で瞑想といわれるものだろうが、それを正式に教わったことがないので等価のものかどうかわからない)技術を獲得したことで、そのときの感覚や自分の理解について世間にあるいくつかの説明を通して確認した程度のことである。

 そういう行動によって得られたものを自分で把握して解釈するには、やはり言葉が必要であって、その言葉が自らのなかでどれほどの解像度を持つかによって、体験の質自体は変わってくるだろうと感じた。

 まったく話が逸れたけれども、自分の使う言葉の種類やその言葉自体にどれだけ実感が伴うか、これが言葉の濃度あるいは密度といえるものに相当する。この濃度や密度を文章作成の技術によって自在に操れるようになれば、他人を引きずり込むものがたりを書き上げることができるだろうし、あるいは自らの言いたいことを他人に伝達できるのではないかと思う。


本題

 ズボンが破れた。たいへんなことである。そういうとどこが破れたと思いますか。やっぱりオシリですか。残念ですが違います。裾の折り返しのところです。そうしておズボンを買うたのだが、ご承知のとおりわたしは服を買うなど年に1度あるかどうかである。そして、洗濯をどうするかがわからないのである。エマールとかクリーニングとか、その基準がわからぬ。バスタオルと何が違うのだ。
 そう思いながら、キョドッた態度でどもりながら、ようやっとのことでおズボンを買うたのだが、どうやら洗濯するのにいろいろの条件がついているようで、家でそれを指摘され暗澹たる気持ちになった。わたしは人間でなくなりました。自分おおげさか。あははん。
 つぎに服を買うときは誰かついてきてください(半分冗談ではあるが、目が笑ってないやつ)。いつになるかわかりませんが、リニア開通よりは前のタイミングになるだろう。しらんけど。