春と風林火山号……が出発するところ

 帳面のーと町は県の北東部に位置する自治体である。
 明治維新以降、石灰石の鉄道貨物輸送が盛んで、とくに戦後の高度成長期のモータリゼーションによる道路網の整備や都心開発のための旺盛な建材需要に応え発展してきたのであった。
 世の中が右肩上がりを信じて疑わなかった時代までは歴代の町長が可能性の低い新幹線駅の誘致をおおまじめに選挙公約として掲げ、当選後も実際に県や国に嘆願していた町でもある。石灰石の採掘による人口増加と産業のさらなる発展を見込んだものであった。
 高度経済成長期にはセメント会社が帳面町で操業を始め、そういった政治的な動きに拍車が掛かったかにみえた。しかし町民の期待は裏切られることになる。それまで他県へ鉄道で輸送していた石灰石は無人化されたベルトコンベアーで町内の工場へ運べばよくなったため、文字どおり町の生命線だった鉄道は工場の創業によって次第に本数を減らし10年ほど前にとうとう貨物輸送の取扱いが廃止となった。工場操業がはじまった当初は地元雇用を期待して活気に湧いた町には、安定稼働により無人化が進むにつれその規模ほどの雇用を期待できない雰囲気が広がり(それは事実であった)、今や工場は一定の税収は生み出すものの設備の老朽化と原料採掘に由来する粉塵の問題を抱えているため、あまりよい印象はなかった。鉄道の貨物輸送を廃止させた張本人であることも町民の意識下にわだかまりを生じさせていた。
 帳面町の鉄道はかつて石灰石輸送で栄えたのだが、今となっては貨物線が旅客用に転用された単線非電化の帳面のーと鉄道が1時間に1本走るだけである。朝晩は地元の高校生と通勤客をJRの接続駅まで乗せるために20分間隔の運行となるのだが、日中の列車は空気を乗せて走るに等しい。つまりそれは、帳面町が高度成長の次の波を捉えられなかったということであって、超高齢化社会へ進みつつあるいまどきの日本の地方都市を体現しているともいえた。
 一方で町の商工会では、石灰石とともにもう一つの産業の柱である染物をアピールしようとする試みも続いている。これは江戸時代から続く伝統産業なのだが、職人気質の染物組合と外部のコンサルタントとはどうにも相性が合わず高品質な特産品を持て余している状態であった。

 帳面町の街並みを特徴づけていたのは地元の石灰石を使ったコンクリート建築であり、古くは大正時代のものもある。明治時代に鉄道を引いた地元の豪商が外国から建築家を招聘して、町役場や学校といった公共施設のデザインを一任したのがいわゆる都市計画の始まりで、その後帝国大学で土木・建築技術を学んだ豪商の3代目がそれを引き継ぎ今の景観を完成させたのであった。かつて栄えた街並みや歴史ある公民館は往時をしのばせるには十分に立派で、それらは映画やテレビドラマの撮影場所になり今も町のシンボルとして気を吐いている。そういった映像媒体が広告となって、結果的に町民の思惑とは別のところで観光客が訪れるに値する魅力を発信しており、そこから口コミが広がったのか次第に先鋭的な価値観や斬新なアイデアを持つ若者も少しずつ訪れる町になった。都心に出ようと思うと出られなくもないが都心からふらっと立ち寄るには遠いという中途半端な距離感が、そのような身軽な人間を呼び込むことになったのだろう。
 彼らは町を去った地銀の建物をリノベーションして新たな活動を始めたり、今どきのスタートアップ企業のやり手もいるのか、役場や業者と交渉してインターネット回線や生活インフラを手近なところから整え、自分たちの居心地のいい場所へ町を作り変えていく。往時の栄光も色褪せた町に新しい血が入り、活性化に向けた動きが生まれつつあった。住み着いた彼らは現実世界だけでなく仮想世界のデザインをも得意とするため、必然的に昔からの住人とは異なった切り口から町の魅力を発信することとなり、それが効果的な町の宣伝となって観光業の活性化の兆しをみせ、高齢化と低税収にあえぐ役場の助け舟にもなりうる存在として認識されている。
 そうなって、令和の世になり増えつつある帳面町への往来の要請に応えるべく動いたのは地元バス会社であった。コロナ禍で倒産したバス会社の放出した中古の大型バスを数台購入し、塗装を自社仕様としたうえ社長自らが考案した四季折々の名前を冠した長距離バスを走らせているのである。今年の春、バスタ新宿へゆく路線の名前は「春と風林火山」号であった。帳面町は山梨県ではなくどうにもいい加減な思いつきとも思えるのだが、田山花袋と江戸川乱歩を足して2で割ったような風貌の社長を知っている町の者は「帳面町の信玄がまた何かやっているぞ」と期待を込めて話題にするのであった。
 その会社には研修を終え長距離バスデビューをする運転手がいる。乗合 春のりあい はるという若い女性で、小柄でありながら視野を広くもち大型バスを苦もなく操るのであった。彼女は駅からの近距離路線バスの担当で、その運転は地元で好評であった。昔のバスと違ってステアリングも軽くトランスミッションもセミオートマとなって身体的な負担が軽減されたこともあるが、それを差し引いても彼女は他の運転手とくらべて勘どころがよく、停止線やバス停の白線にピタリと停めるくらいは朝飯前、混雑する駅前であっても空いている車線が見えているかのようにバスを操るのである。今回その腕を買われて長距離バスの運転手へ抜擢され、彼女はバス会社にとっても欠かせない人材となりつつあった。


 3月20日、21時に帳面駅を出発する「春と風林火山」号が乗合 春の長距離バスデビューであった。彼女は自分の名前を冠した路線への乗務を希望し、彼女のイメージに合わせたポスターまで制作されたことで地元では「乗合 春と風林火山」号としてちょっとした話題なのであった。その甲斐あってかこの日の予約は満席となった。

 ロータリーとバス乗り場のある帳面駅は昭和のレトロな佇まいを残したコンクリート造りの駅で、建材の質感を活かしつつモザイクタイルで描く曲線が記憶に残るよう設計されている。待合室の高い天井に明かり取りの丸い窓を配したデザインは町のほかの建物にはないもので、これが駅の目印となっていた。 
 駅の1番バスのりばの案内板は更新されて日が浅く「昼行・夜行バス バスタ新宿行」の文字がくっきりとしていた。春休みだからかバス停に並んでいるのは学生らしき若者が多く「今日の運転手、春さんだろ? 満員じゃね?」と運転手目当ての乗客もいるようだ。

 20時50分、乗車手続きが始まった。それぞれが乗車受付の係員の持つ端末へスマートフォンをかざし、QRコードを読み取らせている。レトロな駅舎で切符をもぎる時代からすると人種も生活様式もまったく別の世界となったようだ。そうして乗車手続きを終えた若者の中には、運転席に収まる運転手とともに写真を撮る者もあり、運転手はこれも業務の一環と割り切っているのか程よい距離感で振る舞うのであった。
 バス会社は乗車体験そのものを重視することで乗客それぞれが会社にとっては無料の広告媒体となる可能性のあることを研修で教育しており、運輸業としての主務以外に「お客様から見られる、魅力あるバス会社」として手探りながら新たな価値提供を模索しているのであった。

 21時定刻、売れ残った最後の4B席も埋まって満席となったバスは、新宿に向けて出発した。乗合 春がマイクを通してアナウンスを始める……。 

 このバスは途中で運転手の交代がある。彼女は出発から23時まで運転したあと仮眠に入り、翌朝4時から新宿に着く6時までふたたびハンドルを握るため、客は乗車時だけでなく降車時にも彼女の姿を見ることになるのだが、さて。



豆島 圭さんの企画におじゃまいたしました。ありがとうございます。

「帳面町からバスタ新宿まで」の夜行バスがテーマの物語

の枠にぎりぎり……入りましたでしょうか(ちょっと厳しいか😅)。

本日やっと時間ができまして、バスを新宿と行き来させる町って改めて考えるとどんななのかな、そこに路線を持つバス会社って……と想像して、ジオラマを作っていくような感覚のまま書いておりましたら、バスの風景や出来事にたどりつく前にお時間になってしまいました😨はわわ

このあとは、みなさまのお書きになったそれぞれのストーリーにつながっていくんだと思うんです。そう、きっとそうなんです、ええ(説得力なし)。


#夜行バスに乗って