見出し画像

自己紹介のような投稿

少しそういうことをやってみようかと思った。

いつだったか「わたしは◯◯である」みたいな言い回しを使った覚えがある。こんどは逆のことをやってみよう。

「わたしは◯◯ではない」

外堀を埋めるような感じである。さて。


まず
「わたしは物書きではない」
この程度の文章でプロであればどれほど楽か。世間から恨みを買うこと必至である。しかし一方で、なんとなく頭から漏れてくる考えを文字に定着させるプロセスは面白くもあり、それを一日に何人もの方が読んでくださり、思いを伝えてくださる方までいらっしゃる。本当にありがたいことです。


次に
「わたしは美術の人ではない」
昔、日本の美術というものに漠然と興味を持った時期がある。それを相対的な見地から整理するためには西洋美術史を眺めるのがいいだろうと思ったことから、なんとなく趣味のような感じになった。わたしのアイコンは「"自作の"八橋蒔絵螺鈿硯箱」です。下で紹介する動画、1分30秒過ぎからの「うるし体験」で"どれだけセンス無くできるか"というむちゃくちゃなアプローチでできたものです。

わたしの作った漆箱の中には、わたしのアイデアの源泉や考えの残骸なんかが入っているんでしょう。でも、まだ開けたことがありません。


「わたしは音楽の人ではない」
音楽で生計を立てているなら、ブルグミュラー25の練習曲で七転八倒するはずがないのである。いや、たとえば弦楽器のプロならそういうこともあるか。いずれにしても、この分野も素人であった。ただヘヴィメタルとかデスメタルが好きなだけの、そのへんの人である。
ヘヴィメタルとは、技術が未熟であるがゆえの同じリズムの繰り返し、というところからグルーヴを発見し、ギターの音を極端に歪ませたパーカッシヴな使い方と組合せて、独特な世界観を作り上げていったものではないか、と思うけれど、情報弱者であるわたしはそのような考察を目にする機会がまだない。


「わたしは文学の人ではない」
本を読むことに没頭する時期があった。けれどそれは、現実世界や仮想世界で出会う「本好き」な人からすると、まったくもって大したことがない。あの作家もこの作家も読んだことがない。読むのが速いか、というとそんなこともない。平々凡々な日本人である。たとえば、いま頭に浮かぶ物書きを5人挙げろ、と言われたら
・橋本治
・高野秀行
・鷲田清一
・山本七平
・清水義範
そんな感じ。明日やったら違う人が出てくるかもしれない。たくさん書こうとするとボロがでるのでやめるのである。そのへんがすでに「じゃない感」満載である。


「わたしは面白い人ではない」
面白い人でありたいな、という思いはある。桂枝雀師匠は「緊張の緩和」と言った。ギャップ。視点をずらすことで笑いが生まれる。視点をずらすためには、それだけ多様な視点や引出しを持つ必要がある。世間の情報を鵜呑みにしない程度の知識や経験はあるつもりだけれども、それが他人からみた面白さとつながっているかというと、そうでもないような気がする。どうせ楽しむなら、自己満足の延長線上に自分以外の人も楽しめればいいな、と思うことはある。その順番が逆になってしまうと「書くことがない」などの状態に陥るのだろうと思う。そうでなくて「書く気がしない」ならあり得るだろうな、と思う。


知らない間に1000文字超えたから、このへんにしておこうと思うのであった。

この記事が参加している募集

自己紹介