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そんなにはやくわかるのか

世の中には情報が溢れているんだそうである。だだ漏れなんだそうである。水が溢れるのはもったいないが情報が溢れるのはもったいなくないのであろうか。わたしにはわからない。

溢れている情報のなかには、すぐにわかるという効能を前面に押し出す、あるいはこれさえわかれば「最強」(この手のものは、つよさの基準が示されない、あるいはあまりに恣意的なのが特徴だ)という文句を掲げるものがある。

そんなにすぐにわかったり「最強」になるのなら、世の中の多くの人たちはもっと物わかりがいいはずだし、何かしらの基準で「うわっ、最強」と思わざるを得ない人が増えているはずだろうと思うのだが、日常生きている限りではそんな感じはしない。周りを見ていると、すぐに知りたいのにすぐにわからない、と言って次から次へとさまざまなものの間を行ったり来たりする人もいる。

その手の情報は、すぐわかる内容であるはずなのに、その情報に触れた人が理解できないとしたら、ふたつの可能性が考えられる。ひとつには、情報に触れた人が愚鈍でどうしようもないのではないか。もうひとつは、叩き文句が偽りである可能性である。これは昔の人が羊頭狗肉とか言うていたのではないか。

何かを自分のものとして定着させるにはそれなりの時間や労力がかかると、わたしなんかは思うの。しかしその手の最強な人種に属する方々はものごとの捉え方や考察といった精神活動、言い換えると個々人の思考の癖に紐づく領域のことが、そんなにすぐわかったり、あるいはこれまでのやり方がかんたんに変更可能だと思っているのであろうか。仮にそうであるとしたら、そういう文句を前面に出す人は、人間のことをわかっているとは言えないだろうが、わかっていないから無邪気にそういう文句を繰り出してくるのかもしれぬ。

そんなにすぐにいろんなことがわかって「最強」になるなら、学校教育で取り入れてみたらええのやないか。そこで大したことがなければ、化けの皮かメッキかそういう類のものが剥がれるのだろうし、すごいものであればもてはやされるであろう。

しらんけど。