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noteからそういうタレコミがあった。セキュリティ面に不安があるのかしら、と思わせるメッセージである。しかしその内容は、お主の投稿した某記事に一定数のアクセスがあるから喜ぶがよかろうぞ、という内容であった。
ありがたいことである。
しかしその一方で日本語話者として「それは言葉の選び方が違うだろう」と思った。noteの運営には、日本語を母国語とする人間はいないのであろうか。

「あなたの記事が見られています!」

 何かよからぬ手段で記事を盗み見られているニュアンスを感じる。誰か見てるぞ。

みてるぞ!
でも目だけで口はなかった
記憶とは曖昧なものである



 機械翻訳あるい外国語話者の扱う無機的な日本語を真似て、それが余計な言外の意味を持つことのない洗練された表現だと運営が思っているのならそう表明してほしいけれども。
 こういう通知は法律や科学の分野のものではないのだから、受け手の立場からすると言葉にはどうやっても言外のニュアンスが感じられるものである。そこに押しつけがましくなく、それでいて好意的な香りをまとわせておくくらいのことを考えてほしいと思う。あるいは直接的に「ページビューがn回を超えました!」で良いではないか。
 まったく個人的で偏った意見であるけれども「創作を後押しする立場」の人間の集まりが言葉を軽んじているように思えて、何やら残念だと感じた。noteという場所はもしかして日本語の取扱いをあまり真剣に考えていないのであろうか。あるいはnoteでいう創作には、日本語の魅力を引き出し縦横無尽に操る文学は含まれておらず、社会的に意味のある(ように見せかけている)ひとめみたら分かる即効性があってクリエイティブな、文学以外のものに目が向いているのであろうか。日本語によって紡がれる、これからの風雪に耐えんとするものがたりが分類されるカテゴリからは当座のキャッシュが得られず業界としても斜陽であることは誰もが認識しているため、経済的合理性の観点から優先度が低いのかも知れぬ。そういう立場を取るのであれば、日本語の取り扱いが雑になったとしても仕方がない。
 ただ、そのようなスタンスであれば「このSNSでは文学的なものの優先順位は低いから、運営の使う日本語は拙いですよ。すまんね。」などと言っておくのがよいと思う。
 サービスを使う側としても、まともに運営されている(ある種のブランド化がはかられている)場所で一定の楽しみを経験したいと思うものである。それがたとえば、なんだかやらかすような事案を定期的に発生させるようなものであれば「え? あんなサービス使ってるの?」と言われかねない。使う側のリテラシーも問われるのである。めんどくさい世の中であることよ。

 わたしは言いすぎているかもしれぬ。とはいえあの通知を見て反射的に思うたことがあったのでその点については正直な気持ちをメモしておくのであった。

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