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生きる意味 という言い回しの表すところ

生きている意味について、わたしが思うことは変わらない。

他人に影響を与えている

というこの一点において
誰もが生きている意味があるのであった。


「あの人は何を考えているんだろう」

「どうしてこんなことをしてしまったのだろう」


一見意味の見い出せない、
理に適わないことであっても、
それを情報として受け取った側は
その情報を受け取った時点で
心にさざなみが立つ。

この時点ですでに、
情報の受け手は、
情報の発信者から、
わずかであっても影響を受けているのである。


特定の人間が、
意識的にせよそうでないにせよ
何かしらの情報を提供することで、他人に影響を与える
ということじたい、
ほかに置き換えができないものである。

わたしの与える影響は、
それがわずかであっても、誰とも違う。
わたし以外の人間が、
同じ対象に与える影響とは
どうやったって異なるのである。


他人が「これは立派だ」と称賛し、
自分が他人の評価を振り返ってなにやら納得する、
そういう他人に自慢できそうな事柄だけをとりあげて
「人に影響を与えている」
と思い込むのは大いなる勘違いであって
他人の認識に乗る
ということだけで、存在する意味はあるのであった。
その「存在する意味」は
本人が納得するかどうかとは
まったく別である。


自分が、理想的な人生を謳歌する、とか
ストレスなく思い通りの毎日を過ごす、とか
そういう状態でなければ「生きる意味がない」というのは
ちょっと短絡的なように思う。


わたしたちは
自分のきづかないところで
他人に影響を与えていることもあるのであった。

そうして、
同じように他人からも影響を受けているのであって
その積み重ねによって
自分は他者からも知らず知らず意味づけされていくのである。


内なる時間の蓄積と
外にある環境の堆積と。


意味がある、というのは
「わたしにとって有意義である」
ということと同じではない。


「生きている意味」という言い回しが表すところは
「自分が存在することによって他人の言動に影響を与えている」
というものである。


「生きる意味がない」
という言い回しをつかうとき、
単純に
「つまらない」とか
「思い通りいかない」というフレーズの言換えなんだな
と感じることがある。
そして
わたしはそういう言葉を聞くと
「そうじゃないだろう」
と思うのである。
言わないけど。

「生きる意味がある」
というのは
「充実している」
とか
「ものごとが思い通り運んで納得している」
などの言換えとは限らない。


他人の五感や意識に何かしら訴える、
他人の心にそれまでになかった動きを生じさせる、
それだけで、その人の生きる意味はあるのだ。


これを言い換えると
存在している、という証拠がどこかに記憶・記録された
ということであって
それは
いつ消えるかもわからない、ずっと残るかもわからない
不安定なものではあるけれど。

人のこころに
特定の人間がなんらかの軌跡を残す
という事象は、ほかに代わるものがない。

それが「生きている意味」であって
しつこいようだけれど
「自分に都合よく物事が進んで気分がいい」ということとは
まったくのべつものである。

だから
個々人は
自分や他人の認識に乗るかどうかとは別の軸ですでに
「生きている意味がある」のであった。

意味がある、ということは
それ自体が良い、とか悪いとか、
その他の価値とは無関係に、
他人の五感、あるいは意識に何かしらの働きかけをした、
という程度のものである。


わたし自身は
「生きる意味」についてそのように思う。

これは、
一人で生きているのではない、
という言い方もできるのであって
人は、無意識であっても
すでに自分の外側の存在に何かしらの影響を与えているのであって
であれば、すでに現実世界との接点を無数に持っているのである。



これはこれとして、
他の人がどう思うかはわからないし
違う考え方があって然るべきもののように思う。