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祭りのあと

 桑田佳祐さんの曲にそういうのがあった気がする。季節は違うけれど。

 幕を閉じました春ピリカ。ありがとう、おつかれさま、そして、おめでとう。そういう言葉が行き交う場へ参加できたことに感謝いたします。

受賞作品はこちら。

 これに限らず印象的な作品が本当にたくさんありました。応募作品の一覧はこちらからどうぞ。


 さて本日は、みなさまの作品を拝見するにあたって手元に置いておいた書籍をすこし挙げておきます。
 そもそも優れた人であればこのようなことをする必要は無いと思います。と言うのは、わたしがこれから挙げる程度のことは優れた人の頭にはすでに入っていることなので。そうではないわたしが周りの方に追いつきたいと思って参照したものです。
 明日は、皆様の作品を拝見してつけた個人メモの抜粋を紹介いたします。

 ということで本日は、手元に置いておいた書籍たちです。


■ものを書くにあたり、その表現方法を自分なりに理解するためのもの


心の底では大地を揺るがす地震のような感情の動きを覚えましても、それは何処までも内にこめて、あえて客観写生をするという所に私の俳句、私の文章の心情はあります。

 内的な動機がなければ、外へ向けて表現することはない。表現する際の心の持ちようのひとつを教えてくれる本。ここには俳句に限らず「表現すること」への向き合い方が綴られている。
 形式を問わず、全てを表現しつくすことは不可能なのだから、それを前提として表現者はどういうものであるか、俳句という世界における高浜虚子の立ち位置から語られる。それを理解することは表現者とその表現の動機とを尊重することにつながるように思える。


戯曲を書くという作業は、単に言葉を書き連ねるということではなく、一つの架空の世界を構築するという行為である。だが、その行為は、手続きや手順によって、リアルなものになったり、ならなかったりする。では、ここで必要とされる手続きや手順とは何だろう。

 表現した作品は受け手にどのように伝わるのか。ここでいう「リアル」は「作品の受け手が感情移入し得るもの」と言い換えることができるだろう。作り手の巧拙があらわれるところでもある。なぜそういった違いが出るのか。拙いとはどういうことかを明らかにすることで、拙さを消すアプローチが可能となる。それは説明不能な才能ではなく、理屈立てて理解したうえで体得できる技術であることがわかる。


本当に必要で見せたかったのは、刀で人を切る場面だけど、電柱を立てたり、関係のない通行人を出したりすることで、本当らしく見せる。つまり、ノイズを入れる。おもろない文体というのは、純粋な要素で成り立っていれば成り立っているほど、おもろないと言えるんです。

 ものの書き手自身が創作を語ることは、これから創作しようとする者に大きなヒントを与える。
 自分で何かしらを書いてみる。ひとつ話を書き切ってみる。そして人の書いたものを読んでみる。その差はどこか。上手い書き手はなぜ上手いのだろう。いくつかの示唆を頭に入れて誰かの書いたものを読み直すことで、その差がひとつひとつ浮かび上がってくる。それは次の創作意欲を掻き立てるものでもある。


■文章を読むというアプローチを学ぶためのもの


「作品の好ききらいを言う前に、読者は、まず作品を誠実に味わうよう努力すること」。味わうとは、作家が読者の感情や想像力にはたらきかけて創り出そうとした経験を、する・・ことである。

 作品に向き合うにあたって、自分の好みを一旦脇に置いておく姿勢は意識しておく必要がある。ひとはいつでも自分に都合よく解釈したがるものだからである。
 書き手が作り出そうした経験を「する」とは、その世界に入り込み、その中で初めて目を開けたときにどういう景色が見えるのか、五感で何が感じられるのか、書き手の描いた世界のみならずその意図を追体験しようとするプロセスだと思われる。言い換えるとそれが「感情や想像力にはたらきかけ」ることになる。


一つの作品を解釈するときは、ただ主題を把握し意図を追求するだけで十分なのではなく、その作品をすぐれた作品たらしめた想像力の活動を、いきいきと感得する所までいくことが望まれます。もっともある作品に即して作品の想像力の活動を感得するための、手近で便利な方法があるわけではありません。

 ひとことでいえば、近道などない。ここでいう「手近で便利な方法」で精神活動をショートカットするような振る舞いをしたとして、そこからみえる景色がどのようなものかは、それ以外の視点を獲得しないとわからない。「コスパ」のような言葉に寄りかかって世間を単一の物差しでみるのも一つのやり方ではあるけれども、それだけを思考判断の根拠とするのは少々心許ない。多角的な視点を意識することを通じて、物差しがひととおりではないことを知り、それぞれの物差しで実際に対象を測量する体験や思考実験によって養われるものが想像力といえる。著者によれば、

文学作品が描く世界は、このような想像力によって、事実よりももっと純粋な事実らしさ・・・・・を獲得することができます。


主題に直接関係しないことを書いてゆくのは、じつは、主人公の生活を、いっそう広く深く暗示することになる。主人公について一切を描きつくすことは、どうせできない相談なのだから、周辺をこまごま書くことにより、描かれない中心部分にも主人公の生活があることを暗示するのである。

 これは源氏物語に紐づいて書かれた文章であるが、読み手が想像力を働かせるために知っておいてよいことである。平田オリザのいう「リアル」な表現に通ずるところがあり、町田康のいう「本当らしく見せる」に共通するところがある。
 これを書き手として意識するのであれば「上手い表現とはなにか」を獲得するにあたってセンス等の近道があると結論づけるのではなくて、「日本語の組合せを使って、読み手側に立ち上がる景色をどう構築するか」という技術の積上げの問題と捉えることができるように思う。



■読んで受け取ったものを自分の言葉で表すための参考文献


この本からは
「好きな本があるよ、いい本があるよ、みんなもよかったら読んでね!」
という声が、聞こえてくるような気がする。

 書評というものは、型にはまったものである必要はなくて、もっと自由でよいと教えてくれた一冊。
 評とはもともと、優れたところや改善すべき点を的確に分析してわかりやすく伝えるものである、と知ってはいるものの、その形式を厳密に守らねばならない、という緊張から解き放ってくれる本であった。一方でその解放は放埒になってはならない。


■知らない表現にあたった時に確認するためのもの

 そういうことである。うちにあるのは第五版。使ったのは2、3回。


■読んだ作品について自分の言葉で表現する訓練をしたもの

 この作品に関する感想は過去に書いた。元々書いておきたかったものでもあり、作品を語るのにたくさんの切り口がある中で、幼少期の体験を軸に書こうと挑戦したもの。




 文章に向き合う、という機会を与えていただきましたピリカさんをはじめをした運営の皆様に感謝いたします。

 明日は皆様の作品を拝見してつけた個人メモの抜粋を紹介いたします。



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