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分析 というモノローグ

たしかに、いろんなことを分析するのは苦にならない。分析というより、なぜそうなってるのかを知りたいぞ、という気持ち。

面白い、と思ったら、その面白さがどこから来るのかを探しに行く。面白いと思う対象と、面白いと思う自分の心の動きと。両方の探検に出ようと思う。

楽しいな、と思ったら、楽しいと思う瞬間を捕まえに行く。それは、楽しい場所とか、楽しい時間というのもあるけれど、楽しいと心が動く瞬間を切り取りたい、ということ。

なぜなんだろう。と思って、それを自分なりに説明できるところまで追わないと、何だか気がすまない。


そこまで行ってわかったのは「説明できないことが世の中にはたくさんある」ということでもある。

自分の理解が及ぶことなんてたかが知れてるし、自分よりもスゴい人が全ての分野でたくさんいる。


それであっても「この文章を読んだ気付きは言葉にしておきたい」とか「この絵を見たら、他のものとのつながりがわかったからメモしておこう」とか、そういう類のこともぽつぽつあって、そうして、何だかとりとめもなく日本語を継いでふらふらしておる。



noteの場は、わたしが日常、家や職場でしない話のてんこ盛りである。なぜしないかというと、興味の対象が周りと違うからである。

わたしのnoteに、料理や酒の話があまり出てこないのは、それらの話題は現実世界でそれなりにやりとりできているからである。

わたしのnoteに仕事の話がほとんどでてこないのは、一般企業でいうところの機密というのもあるけれど、現実世界でじゅうぶん話をしているからである(いちおう、働いてます)。



興味を持った人や対象を、自分の持っている言葉で表現できたら、なんだかうれしいのである。

なぜならば、人は自分の知っている言葉の範囲でしか生きていけないし、それをうまく使えたほうがいい気がするからであった。


じゃあ、わたしが日本語を使いこなしているかというとそれはまた別の話であって、仮に使いこなしていたならば、どこかしらの分野で、日本語を組立てて人様のお役に立ち、生計を立ててすでに有名人になっているのであって、noteでもやろうものなら有料記事がバカスカ売れまくり、左団扇になっているはずである。そうなっていないということは、…まあ、そういうことである。あははん。