ジジイとは何か、あるいはわたしはジジイなのかという問い

それはわたしが勝手にジジイ呼ばわりしているだけであって、世間の人がどう表現しているかといえば、提唱者である。なぜなら下記リンクでそうなっているからである。


さて、何が書かれているのであろうか。

提唱者(INFJ型)は最もまれな性格タイプですが、社会に大きく影響を与える人たちでもあります。強い信念を持ち、理想主義者である提唱者は惰性で生きる人生には満足せず、自身が立ち上がり、ものごとを改善したいと感じます。お金や地位を得ることを成功とは考えていず、人助けをしたり、世の中にポジティブな変化をもたらしたり、達成感を得たりすることを成功と考えるタイプです。

INFJだそうである。わたしはそれを知らない。UFJなら知っているのだが。USJというかユニバ(アクセントはニにある。ユバである)には行ったことがない。そしてわたしは惰性で生きている(昨日生きていた。その延長で今日生きている)状態であって、別にそれでいいと思うのであった。物事を改善したいかどうかは、自分のめんどくささと常に天秤にかかっている。
「面倒なことが起きそうだ」と想定されるときや、「面倒なことは起こってほしくない」と感じた時には改善したいと考えるけれども、世の中の一定の割合の人たちだって同じように考えているのだろうから、別にどっちでもええのやないかと思うのであった。


非常に高い目標や野心を持つというのが提唱者の特徴ですが、のんびりした夢想家ではありません。提唱者は誠意を大事にし、自分が正しいと思うことをしないと気が済まない性分です。自分の価値観をはっきり認識している上に、大切なことを見失わないように常に意識している根っから実直な人たちです。他の人の考えや社会規範をそのまま受け入れるのではなく、自身の知識と直感を基に何が大事か判断して、それを見失わないよう努める人が提唱者です。

自分が正しいと思うことをしないと気が済まない、という表現があるが、「自分が正しいと思うことなどする必要がない」人がいると言ってるように解釈できる。そんな人いるの? そこが、自分の価値観をはっきり認識しているということであれば、ははんそうですかね、というところであろうか。
大切なことというのも所詮は主観に過ぎず、昨今の言い回しを拝借すれば「それってあなたの感想ですよね」である。なにをどう言うたところでわたしの、そしてあなたの個人的な感想から出ることなどできないのだから、別にそれぞれ大切だと思うことがあればそれでええのやないか。人間関係というのは、他人の大切なものと自分のそれとの間にどの程度の親和性があるか、というだけのことに思える。


提唱者の性格タイプが非常に珍しいからかもしれませんが、本人が自覚していない場合も含めて、「自分は大抵の人とは違う」と感じている傾向があります。豊かな内面を持つ上、人生の目的を見つけたいという深く揺るぎない思いがあるので、提唱者は周りの人となじまないこともあります。周りの人に受け入れられたり、親密な関係を築いたりするのは不可能という意味ではありません。ただ、「人に理解されない」「社会全般と相いれない」と時々感じるのです。

みんなそれぞれに「人と違う」と思っているに違いない。なぜならば満員電車でたまたま自分と全く同じ格好の人を見つけたら「うわっ。かぶってるわ」と思い居心地が悪くなるであろう。同じカバン、同じ靴、同じ服の色合い、同じ眼鏡、同じ髪型、同じ背格好、同じ仕草……、カバンから取り出した本まで同じだったら、どう思いますかね。そういうレベルで人は必ず他人とは異なるので、それでええのやないか。
周りの人となじまないといっても、それだって社会的な生活においてある程度許容しなければ先へ進めないのであって、特別にピックアップすることでもないように思う。ここの文章構造は「あなたは珍しい」という先入観を植え付けた後に一般論を続けているもので、その構造の内側に入るから、そうかもしらんなと思うのであって、これは商売において最初に高い値付けをしておいて「割引です」という演出に近い。つまり、ここで論じられていることがらは一般論を出てないのやないか。


周りになじめないという感覚があっても、幸い社会をよくするという強い決意を提唱者が失うことはありません。不正義に心悩まされる人たちなので、通常、個人的利益より利他的行動を重視します。クリエイティビティ、想像力や繊細さなどといった自身の持ち味を生かしながら他の人をサポートしたり、慈悲の心を広めたりするのが自分の役割だと感じることが多いでしょう。

周りになじめないという感覚、まったく余計なお世話である。あなたのいう周りとはいったい何を指しているのかね、と突っかかったところでなしのつぶてであった。言葉は虚空に吸い込まれ、うそさむきことこの上なし。5月で暑いと言うているのに。あははん。社会をよくする、というのを恣意的に解釈すれば、自分の属するところで面倒なことが起こるのはいやだな、と思うところが原点となっていろいろな行動に派生していくのであって、これはもうすでに言うた。強いて付け加えるならば、危険や面倒なことを察知したり、具体的に予測する能力は少しある。それは単純にめんどくさいことが嫌いだという理由による。


他者を支援することが、自分の人生の目的だと考える提唱者は少なくありません。正義のために、いい意味でものごとに介入して声を上げるよう、いつも提唱者は心掛けています。公平で生きやすい世の中を作るために、深刻な社会問題の解決をも目指します。理想を追求するばかりに、自分自身のケアを怠ってしまうこともあるので、ストレスがたまり、燃え尽きてしまう場合もあります。

すごく立派なひとが世の中にはいてはんねやな、と思ったがわたしはここにあてはまらない。なぜならば深刻な社会問題の解決がなにかわたしは知らないからである。世の中はそもそも不公平であって、公平なのは生き物それぞれが生存している間の物理的な時間の流れ方だけである。1秒は1秒。そして理想を追求することはない。理想とは追いつけないから理想なのであって、そこにたどり着けることがらには理想とは言わず目標とか目的とかいう言葉を使うからである。


提唱者は内向的ですが、偽りのない深い人間関係を大事にする人たちです。相手を心から理解し、自分も相手に深く理解してもらう。これができれば、提唱者はとてつもなく大きな満足感を得られます。雑談より、奥の深い会話を断然好み、周りに気を配りながら穏やかに会話に参加する傾向もあります。提唱者の高い洞察力と自分の気持ちに正直である様子に、周りの人は強く印象付けられるでしょう。

相手を心から理解し、自分も相手に深く理解してもらう。これができれば、だれだって大きな満足感が得られるのではないか。つまり一般論である。お互いに深く理解しあう(という勘違いをそのまま鵜呑みにできる)のであれば、それはそのひとたちにとって良い状態にあるのだから、よかったね、という以上のことはない。よいものはよいからである。よいものをわるいというのは単なる妬みであって、人にはそういう感情も備わっているため自然な思いの発露ではあるものの時と場所を選ぶほうがよいだろう。気ぃつけなはれや。これが、周りに気を配るということに当てはまるのかもしれぬ。そして周りのひとがどう思うかは制御できないので、自分がどう思ってもしかたのないことである。


気が利く上に慈悲深い人たちなので、人間関係にかなりのエネルギーを注ぎ、気遣いもします。でも、だからといって相手からいつも感謝されるとは限りません。とても思慮深い人たちなので、自分の善意が理解されないともどかしく感じることもあるでしょう。その結果、たとえ建設的な批判であっても、非常にショックを受けたり傷ついたりすることがあります。

わたしは気が利きません。なぜならばそういうプロセスが面倒だからです。自分の善意が理解されないとかって、押し付けたものを要らないというのも他人の意思表示であって、むしろそれを伝えてくれることに感謝すべきじゃないんですか。しかたのないものはしかたがなく、ならぬものはなりません。上杉鷹山も言うてはりました。そういうことである。


多くの提唱者は自分の人生には特別な目的がある、つまり“この地球上で自分が果たすべき使命”があると感じています。この使命が一体何なのか見つけ出すことに大きな意味を感じていて、使命が何か分かったら、それに一生懸命取り組むのです。

特別な目的が、なにかあればええのやけどね。探してみますかね。おーい、目的ってどこや〜? ……あっ、いや、特別なやつなんで、ぼくが探してるやつは。いやいや、そういうセコいやつじゃないんですよ、ええ。えらいすんまへんなぁ声かけてもろたのに。
そういえば東京日本橋の三越や高島屋には特別食堂いうやつがあるんで、そこにいけば特別な目的があるんかもしらんけどね。少なくとも特別なメニューはあると思うよ。しらんけど。


不公平なことに遭遇しても、提唱者はほぼ決してあきらめることなく、直感と思いやりの心を軸にして解決策に取り組みます。頭と心のバランスを取ることが生まれつき得意なので、大小の社会悪を是正するのに最適な人材です。ただ提唱者が忘れてはいけないのは、他の人のケアをしつつも、時には小休止を取り自分自身をケアすることです。

繰り返しになるが世の中は不公平が前提になっている。公平というのは現代的な民主主義の理屈に植え付けられた思い込みなのではないか。もちろん公平あるいは平等であることはそれだけで人間として生きやすいし、そういう状態が望ましいのは言うまでもない。しかし前提が不公平(不平等)にあるとわたしは考えているので、それをあきらめる(=あきらかに見る。諦観する)ことで解決策を講じてものごとを進めるのはなにも特別なことではない。そうでないアプローチを取ること自体が遠回りなのではないのか、と思う。

公平という言葉を世間の日本語話者がどう捉えているのかわからないが、日本ではすこし前に「みんな違ってみんないい」と多くのひとが口先で言っていたのを思い出した。みんな違うというのは公平ではない状態であると思う。みんないいというのは公平でない状態を自分の感情をはたらせる前に事実として認めることである。すべてはそこが出発点になるのであって、自分がみんなと違ってルールから外れていても「みんないい」って言うフレーズがあるから自分の放埒さは社会に許容される、と解釈をするのはまったくの筋違いである。


わたしが提唱者だというのであれば、下記を提唱する。
「酒は飲んでも飲まれるな」
所詮わたしなどその程度である。


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