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なにか我慢できぬ時間がある

なにか食べたいと思うが「あとでええやろ」と思ったりする。わたしはめんどくさがりである。アレ飲みたいなと思うが「まあ今日はやめとこか」と思ったりする。わたしはものぐさである。

なぜなら、now, we are home. 自分で書いていながら意味がわからない。


ぶつくさ言うわりに、食べ物や飲み物を摂るタイミングはいつだってええのだ。しかしいったんそれを目の前に並べるとなったらああでなければならぬ、こうであるほうがよい、などとうるさいことを言い出したりする。うっとしいな。これからの時期は夏であるからまだよいものの、冬となって鍋となったらこういう輩に鍋を任せてはならぬ。寝てはならぬ。ネッスンドルマ。寝とるんだれや。サンドマン。あほみたいな顔して。

 なべなべ言うとるやろ。いや言うてない。we're off to never-neverland 言うてるだけや。ねばねば。鍋の話か、ワレ。ワレ鍋にとじぶたか。
 鍋の材質、鍋の直径、深さ、水分量、出汁の種類や量、出汁をとる温度、昆布はいつ引き上げるのか、そして旬を考慮に入れた食材の種類、量、大きさ、切り方、鍋の温度を一定に保つため食材の投入順、ひとりあたまのエネルギー摂取量と栄養素のバランス、おじやにするための出汁の残量を管理せねばならぬ。おじやにするコメはあまりもちっとしたものは合わない。やはりおにぎりにしやすい少し硬めのものの方がよいように思われる。一方、スタートのビールは何にするか、ラガーかエールか、注ぐのはグラスでよいのか、その後はスパークリングワインでええのか、わいわいやるならランブルスコでええやないか、低アルコールですぐ涸れるけどな、そうなるとやはり日本酒か、すいすいいけるやつがええか、五百万石からなにか見繕ってくれや、あるいは焼酎のお湯割もええやないか、持ってくるんは芋やぞ芋、などと愚考をめぐらせ斯様なことどもを設計し、誰に言うでもなく手前勝手に実行しようとするのである。世間ではこういうのを傍若無人の独断専行とか、つまらぬことを考え続けそのわりに何も捗ゆかぬことから「下手の考え休むに似たり」と表現するのだそうである。しかし I don't wanna stop !

というのはまったくの嘘デタラメである。らたたた たった。なぜこの蒸し暑いときに鍋のことなどを無駄に書き連ねているのであろうか。まったく見当外れも甚だしい。ズレとんな自分。

なんがいいたいのかというと、くだらないことを書かないとあかん気がするのだ。違う、そうではない。わたしはくだらなくないのである。自称くだらなくない人である。「自称くだらなくない人」とキーを打とうとしたら、PC
が一瞬固まった。どういうことであろうか。そういうことであろう。たまらん、だれか show me the way.


何が言いたかったかと言うと、ちょっと我慢できない時間というのがあって、何に我慢できないかと言うと、どうにもheavy metalを聞かないと落ち着かないのである。ほとばしる躍動感。世界に愛が満ちてるならばオイラを。



意味なんてないんだよ。あっちゃいけないんだ。

「これに何の意味があるんですか」なんてしらない。なぜぼくはきみにそんなことを聞かれなければならないのだ。きみが勝手に自らの時間をつかって、その代償をぼくに求めるのか。ぼくがきみに、何を答える義務や権利があるのだ。能書きを垂れる必要があるのだ。そんなものはないのだ。仮にぼくがきみに「コレコレの意味があるのだ」などと言うたらそれが絶対的な尺度になるのか。ならないだろう。

空が青いこと、夕焼けが赤くなること、雲が流れることにどういう意味があるのか、問うたことがあるのか。空の色に関する光学的な説明と、それへの意味づけとは違う。空の高度と含水量や温度、風向などもろもろの条件が決まり特定の雲が現出する意味などあるのか。きみが存在する前から空は青く夕焼けは赤く雲は流れているのだ。その意味を、いったいだれに問うのだ。

ものごとに意味なんてないんだよ。なにも意味づけされていないから、意味づけされていないところを出発点にして、自分でものがたりをつくっていく。


しらんけど。