休憩中のメモ 本題は最後に書く



筋力について

 書くことにより獲得する筋力のことをお友達に話した。なんとなく思っていることが外へ出てそれを元に言葉のやりとりができるのは刺激的でおもしろい。文学評論においてかつて「抽象的な構造だけの骨組みの小説みたい……どうしてこう抽象的にやせちゃうのか」と表現されていたのをみて、評論対象の小説を読んだ時の感想に一致していたのを思い出した。
 読んでいる途中の充実感、あるいは読後の満足感が一定の水準に達していないのは、作品が"やせている"からである、と言われるとなるほどと思う部分がある。
 身体の筋肉にいろんな部位、いろんな働きがあるのと同様に、文章構築においてもさまざまなものがあるだろう。描写する対象を的確に言葉に落とし込む力、ロジックをものがたりのなかで一貫させる構成力、いちど始めた話を完結させる持久力、これらはある程度までは作法として技術的に鍛練可能だという意味で、筋力に例えて差し支えないだろうと思う。
 そしておもてに出るものだけが筋力ではなく「書かないという筋力」もあるのだ。書かずに踏みとどまる力。書かずに文章を構成する力。

ああ、そういう力もあるのだ。

 わたしはそんな話ができてありがたいと思う。


「村上春樹 河合隼雄に会いにいく」を読んでいる

 まだ途中だが、村上春樹のインタビュー集(文春文庫)を以前に読んだからか、小説への向き合い方について理解が深まったように思う。日本以外の文化背景を持っている人間の興味を元に展開するインタビューは興味深いし、同じことを繰り返したり違う角度から答えたりしているのをみると、村上春樹の軸やその眼差しの先にあるもの、その視野の広さ(あるいは深さ)に驚く。
 そうはいっても作品だけから得られるものもあるし、作品はその作者が誰であろうと作品単体で評価されるものが大半なので、わざわざ作者のことを知る必要はない。極端なはなし、紫式部の容姿や性癖なんてそもそも知らないしわからない。
 といった前段があって河合隼雄との対談を読んでいる。深い洞察力を持っている人が話をすれば、他人が読んでも面白いものになるという見本のようなもの。同じように感じた本に「橋本治と内田樹」がある。これは橋本治の思考を表に出す役割を果たしたと思う。


いまなら丸谷才一にあたるポジションって誰ですかね?

 お友達と話しているときにふと言った。わたしはそういう人は思いつかなかった。
 ポストだれそれ、といったときに思いつかない人が多い。ポスト山本七平。だれかいるだろうか。ポスト ドナルド・キーン。ポスト何某……。
それはたとえば戦国時代の武将においてポスト織田信長(秀吉という意味ではなく、人格や物事を進めるスタイルが彼にそっくりな巨人は居たか、という意味で)が見当たらなかったり、幕末にポスト久坂玄瑞が見当たらなかったりするのに似ているのかもしれない。
 人間とは「時代」という触媒に触れたときにそれぞれの特性が顕著に発揮される習性がある生物だ、と思えば腑に落ちるようにも思う。


児童の発見

 柄谷行人「日本近代文学の起源 原本」を少しずつ読んでいる。そのなかに「児童の発見」なる章があった。日本の思想的な変遷は基本的に借り物を土台にしているので、思想の輸入に対する拒否反応と順応性、あるいはその振れ幅が時間とともに減衰してある地点に着地するまでの履歴を整理することで一応の理解に達するように思う。この本をもう少し早い時期に知っていればいろんな物事の考え方は少し違ったかもしれない。本に記載されている事柄の的確な把握と咀嚼、それを自分の考え方に照らし合わせるなどの有機的な理解に至っていないのは、この本を発見するのが遅かったからだ、というのは言い訳である。
 児童というと今の日本においては共通の理解がされるが、これは人類の歴史においてかなり新しい概念であって教育と強く結びついている。それを知ること自体が視野を広げてくれる。児童文学の歴史もそう長いものではない。
 いっぽうで(いまこのようなことを書くと四方八方からアレルギー反応的に糾弾されるが)昔から"教養のない女こども"向けの物語は存在していて、それは児童文学という後の時代で勝手に定義をこしらえた枠から外れるのかもしれない。これは古代の洞窟壁画を後の時代が勝手に「美術」の枠に入れるかどうかを恣意的に判断するのに似ている気がするが、まだ深掘りできていないので、保留。


アレルギー反応

 とうとう。どうにも逃れられないようである。風邪のような症状がでて、いまどきのインフルエンザやその後の新型コロナ、あるいは"ふつうの"風邪に罹ったかと思いがっくりきていたら、熱はない。鼻づまり、目の奥の方が重たい。そうなると発熱するかと思いきや頭がボーッとする時間が長く症状が他へ移行しない。そういえば少し喉も腫れているような気がする。ではやはり風邪か。しばらく様子をみようと思って、過去のいろんな世間話を思い出しながらその情報を総合するとどうやら、季節性のアレルギー、いいかえると花粉症ではないかと見当をつけざるを得ない。これは困ったことである。半永久的に対峙し続けなければならぬ。
 ひとは、自分が認めたくない事柄を前にすると事実までどうにも遠回りしたい習性を持っているようである。


孤独の果て

 そういう言葉が実感を持って自分の思考回路を殴打した。夕方の通勤電車、ロングシートに座ってドアの脇に寄りかかる大学生らしき若者をみるともなく見ていたときであった。本当はそのドアの上にある液晶モニタで今止まっている駅がどこなのか確認したかったのだが、視線を上げていく途中に顔も覚えていないその学生はいた。
 別に彼の容姿やたたずまいがその言葉を呼んだわけではない。孤独の果てという言葉が腑に落ちたのは、こころとからだという二元論でものごとを語るのではなく、ジョッキーと馬のような喩えを持ち出して自分の居心地のいいナラティヴを再構築するからでもなく、そういったいくつかの道具を用いて自分を再び構築していくことは誰しもあるにせよ、孤独が概念上では直線として実感された。これまで孤独を直線的に実感したことはなかった。
 孤独とはゼロを端にもつ半直線であり、半直線の向こうは無限大まで続いている。無限大とは孤独の果てであって、果てに至るまでその半直線にはその人なりの目盛りが打たれている。わたしはそのように理解した。
その孤独とはなんであるか。ひとことでいえば執着からの乖離である。
 自分への執着、他人への執着、世界への執着……。これらにはそれぞれ度合・程度があって、肉体的・心理的な現実社会とのコミットメントと言い換えられるのではないか。それらをかならずしも定量的に表現できないにしても。
 執着とは、こうあってほしいという願いであり、大事だと感じる感覚であり、意味を感じ取る思考プロセスである。
 感情でいえば、ひとつはそれを失うことによる怒りや悲しみである。そこに継続的にあると思っていたものが失くなることによる喪失感を起点とする。自分の体力であったり気力であったり、身体器官であったり、それがあるタイミングで欠損してほしくないのに、という執着である。自分だけでなく他人との人間関係においてもそれはあるし、人間だけでなくあらゆるモノへもその種の執着心は生じる。
 あるいは、自分の手元にあってほしいという欲望である。金銭であったり異性であったり名声であったり、対象はさまざまである。対象に応じて、物欲といったり恋愛感情といったり出世願望といったりするが、分けて考える必要などなく、対象に執着しているだけである。対象が異なれば執着を異なる言葉で言い換えるだけのことである。文化的に重要な位置づけの事柄に対して語彙が豊富になるのが言語の性質である。各言語において執着のバリエーションは本人たちが気づかないほどたくさんあることに気づくだろう。
 そして根本は、自分が生きているという状態への執着である。この時間はいつか終わるのだろうが「それは今ではない」という漠然とした帰納的感覚。
生から離れるのは今かもしれないと体験した人はいろんな執着から自由になることがあるが、執着から自由になることは、実は孤独になることと必ずしも同じではない。これはついさっき言うたことと矛盾しているように思う。この矛盾をどう考えるのか。
 「ひとはひとりで生きていけない」という実感の有無がその分水嶺になるのではないかとわたしは考えている。
 執着から自由になることと執着から乖離することとは、似ているようで決定的に異なる。


本題

 餃子は正嗣。これが本題である。書き手がいうのだからそうなのだ。
 餃子は正嗣。
 大事なことは2回言うのである。