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給食がないことを証明せよ

たとえば、運動会など行事の日には、給食がなかった。そういう日に「給食がない!」と驚くことはないのである。

しかし、運動会であったはずの日、あいにくの雨ということもある。そうしたら登校して授業となってしまった。しかし、給食はない。授業があるのに給食はない、しかも運動会でもない。なんという日であろうか。せめて給食くらいあったっていいじゃないか。しかし、給食はないのだ。本当なのだろうか。本当に給食は無いのか。ひとつの問を立ててみる。


問.今日、給食がないことを証明せよ。


背理法で証明してみよう。

今日、給食が、あると仮定する。
……給食が、あると、仮定する。


あの、……ちょっとええかな?

仮定なんて言うてるけどね、そんなんウソやないか。ないもんを「あるとする」とか平気な顔して言うなや。楽しみにしてた給食、無かってんぞ。なぁ、わかる? ガッカリした気持ち思い出したやん。運動会は1年に1回しかないのに、それがなくなってね、ぼくらは給食すら無いのよ、今日は。よくもまあ「給食があると仮定する」なんて言えたもんやな。どういう根性しとんねや、君は。
せやけどあれやな、君はほんまに給食が「あるとする」とか言うたんか? そんな顔して、ん? そらな、今日もあってほしかったよ、給食。けど無いやん。無いやん? 昨日先生が確認したやん? 運動会が無いのに弁当やん? この「今日は教室でなぜか弁当」っていう事実が悲しいわけやん? 給食がないとか、それもええけど、運動会が流れたやん? その結果、給食がないわけやん? 弁当だけが運動会仕様っていうこの事実がもうすでにあるわけやん? それをな、君な、わかってるのにわざわざ軽々しく口で言うもんちゃうやろ、「給食があると仮定する」とか。なんやねん、仮定するとかしょうもないこと言いよってからに。無いもんは無いねんで。

そんな無いもんを「ある」とか言うたら矛盾してるやないか。

せやから無いねん、給食は!


こういうので「証明できた」とするのかどうか、わたしにはわからない。



わたしはこういう愚にもつかないことばかりをやっておる。いや、ちがう。それしかやっていないに等しい。こんなことでええのであろうか。ええもなにも、それ以外に比較できる自分がいないので、ええもわるいもないのである。ただ「こういうもの」である。阿呆ではなかろうか。しかし比較するものもなくただ阿呆と決めつけるのも気が引ける。ではひとつの問を立てて、阿呆かどうかを確認してみようではないか。

問.わたしが阿呆でないことを証明せよ

よし、背理法で証明してみよう。

わたしが阿呆ではあると仮定する。
……わたしが、阿呆であると、……仮定、する?

これ、背理法でやるのですか。自分でやるのですか。「証明」するんですか。これ、仮定じゃなくて事実やないか、とか言いませんか? 大丈夫ですか? 誰か外野からへんなこと言いませんか? いや、そうであっても、サイエンスというのは事実から目を背けてはいけませぬ。厳然たる事実があれば、それは受け入れざるを得ないのであります。阿呆であればね、阿呆であったらの話ですよ、ねぇ。

それはわかっておりますが、しかし、しかしですよ、サイエンスというのはね、「いい問い」を立てないといけないわけですよ。センスのない、あかん問いを立てたってそれはダメなわけであってね。あ、さっき立てた問いはあかんやつとちゃいますかねぇ。いい問いを立てたら、それに従って答えが導かれるんです、ね、いい問いっていうのはそういうものなんです。そうしたら、今度はアレですか。「わたしが阿呆でないことを証明せよ」というのは、センスのないあかん問いなわけですか。え、そうなん? これは困った。いや、阿呆じゃないんです、違うんです、うわっ、これ今気づいたぞ、あれやな、なんかドツボいうやつやな、これ。言えば言うほど空気が寒くなっていくやつやな、あかんぞこの流れは。

わたしはいったいどうしたらええのであろうか。

こたえはひとつ。
最初から黙っておればよかったのであった。
昔の人はこう言うた。沈黙は金。