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「む」のつぎは「ろ」であって、「ぶ」はどこへ行ったのか。今回は「い」であった。そして相変わらずcanvaでいちびった遊びをしておる。このあと「し」「げ」「る」とかにはならないので、大丈夫です(何が?)。たとえば、

し・・・司馬江漢
げ・・・山口源
る・・・ルノアール

わたしの思い入れからすると、ちょっと無理でした。


*   *   *


2018年の夏、田中一村の描いた実物を佐川美術館で見た。
ほんとうはその企画展で制作された図録、というものがほしかったのだけれどそういうものは作っていないとのことで、もうだいぶ昔に買った作品集をまた眺めている。一村の撮った写真をまとめたものがあれば見てみたいな、と思う。アートの世界に身を置く方の見ている景色を切り取る"写真"という手段は、その方の作り上げる作品とはまた違った面が発見できるようで、うれしい。

さて、一村は、奄美に移ってからも絵描きだと知っているひとは少数しかいなかったとのことだから、傍目から見たら相当な「変わり者」だったのだろう。紬工場に勤め、それ以外は家にこもってなにやらやっている、けれども絵描きだと知っている人がいないということは、他人に作品を見せることがなかったことになる。

家族があると絵を売らなければなりません。私は売る絵は描かないのです。

そういう信念のようなものを持っていた。


作品集を眺め、そのあとに本物をみると、やはり驚いた。

小さなときから才能あふれるひとだったとのことだけれど、さすがに少年のころの絵にはいろいろな意味での未熟さがあったように感じる。それを差し置いても「いい絵を描く予感」を感じさせるものだった(それは、既に足跡を知っているからかもしれない)。豊富な作品群で、彼の辿った道のりをわたしなりになぞることができたのだった。
彼の視線、ものの見え方が作品に現れていたように思われて、その一方で、生活への慈しみ、自然への感謝をもっと直接的に表せないものかと常に葛藤しているようにも見えた。描き続けるというのは、そういうものなのかもしれない。


「いい作品を残した画家のひとり」に留まらなかった胸の内は、

私の絵の最終決定版の絵が、ヒューマニティーであろうが、悪魔的であろうが、画の正道であるとも邪道であるとも、なんと批評されても私は満足なのです。それは見せるためにかいたのではなく、私の良心を納得させるためにやったのですから。

という言葉からも伺える。絵のために生きる。

「アダンの海辺(アダンの木)」は彼の生涯を代表する作品であり、見るものを圧倒せずにおかない気魄がある。作品集の表紙にもなっていた。

この作品集を見て、いつか見てみたいと思っていたけれど、印刷したものと実物との間には天と地ほどの差がある。

実物を目にすると、浜辺に描かれた砂利をそっと触りたくなる。打ち寄せる漣に耳を傾けたくなる。しかし柔らかな足元の景色から目を転じれば、アダンは、空は、息を呑む凄味を発している。彼みずから「閻魔大王への土産」と評した作品。この代表作を描く十年ほど前に、同じモチーフで仕上げた作品と並べても、これは決定的に違う。



なぜ美術館があるのか。
それは「本物にあう機会を与えるため」である。


わたしにとって、ウィーンで見たクリムトがそう思わせる原体験であった。あの「匂い立つエロス」としか言いようのない作品は教科書や画集でみるのとは全く違った。羞恥でも猥雑でもなく。

日本的な陰翳とは無縁な、ゴテゴテの金ピカで派手に彩られた「人に見られるための艶めかしさ」、そういうものを形にしたらああなった。安土の絢爛豪華な文化にもここまであからさまなものは無いだろう。わたしは、自分の理解の外側にあるものを目の前にして「本物とはなんであるか」をわたしなりに理解したのであった。その本物は「エロス」を具現化したものであって「タブー」ではなかった。実物を見たあとに、画集で同じ作品を見ても「ちゃちい平凡な絵」にしか見えなかった。


そういう体験があったから、一村の作品はぜったいにこの目で見なければならないと思っていたのだった。画集でみたものですら、対象へ注ぐ感情がにじみ出るような作品なのに、本物はいったいどんなものなのだろう。見逃すわけにはいかなかったのである。


一村が書いた、知人宛の手紙にはこうある。

「私は紬工場に染色工として働いて居ます。…昭和四十二年の夏まで(五年間)働けば、三年間の生活費と絵具代が捻出出来ると思われます。そして私のえかきとしての最終を飾る立派な絵をかきたいと考えています」

奄美での作品で特に目を惹くものは、この昭和四十二年以降の三年間に描かれたもののようである(「アダンの海辺」は、昭和四十七〜八年)。それぞれの作品から、"立派な絵をかきたい"という求道者のような姿勢と、その一方でなにものからも開放され、天衣無縫に絵筆を走らせた軌跡との両方を、われわれは目にするのだ。そこには画材のために生活を切り詰める"まことに零細(知人宛の手紙より)"な彼が、"えかきとしての最終を飾る"ために、一村自身の"良心を納得させるため"に絹本に描き上げる総てが込められている。作品を見るものにまで、それは響いてくるのである。


*   *   *


と思ってさっきちょっと調べ物していたら、つい最近まで千葉市美術館で一村展が開催されていたではないか。そして終わっているではないか。このパンフレットに「アダンの海辺」が使われている。


・・・か〜っ!、ぬかったなぁ。ブッ細工やなぁ。何をしてまんねんな。完全に油断しておった。


鼻ズビズバさせて寝ます。

みなさんごきげんやう。