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まるりんさんの記事を読んで

▫️まるりんさん、勝手に記事を引用しました事、どうぞお許しください▫️

まるりんさんの記事を読ませて頂き、そうだそうだーと強く共感しました。
そして、とある後輩K君のことを思い出しました。

まるりんさんの記事では、文末に「おたすけって、一方的に親の声を伝えることではないと思いますが、それって認識の違いでしょうか?」
とありました。
一方的に親の声(「親」議論はまた今度ね)を伝えたがる人。認識の違いどころか、ズレてる人だと私は思ってしまいます。

つい先日、後輩K君からこんなLINEが来ました。
「妻の手術が無事に終わり、術後の経過も良く、おかげさまで退院できました!」
て。
ここまではいいんです。
その続きが、ワタシ的には認識のズレを感じた文章でした。
「今回の妻の身上で、妻にお諭しする時間をたくさん頂きました。ありがたいです。」と。

コレ、お諭ししたがる人やん。
“ありがたいです”て感じてるのは後輩K君だけでしょねぇ。たぶん後輩K君本人はドヤ顔なんやろねぇ。
後輩K君のことも、奥さんのことも存じ上げてる私には、「奥さんもありがたがってるやろなぁ」とは1mmも思いません。むしろ、「あんた、辛いのは私よ。なんにもわかってないんだからッ」くらいの気持ちだと推察するわけですよ、奥さんの立場からすると。因みに、奥さんは親譲りの信仰で、とっくによふぼくさんですよ。

まるりんさんは、立教175年10月26日の諭達第3号を引用されました。

おたすけは周囲に心を配ることから始まる。身上・事情に苦しむ人、悩む人があれば、先ずは、その治まりを願い、進んで声を掛け、たすけの手を差し伸べよう。病む人には真実込めておさづけを取り次ぎ、悩める人の胸の内に耳を傾け、寄り添うとともに、をやの声を伝え、心の向きが変わるようにと導く。更には、共々に人だすけに向かうまでに丹精したい。

4代真柱様 諭達第3号 

果たして、後輩K君は奥さんの胸の内に耳を傾けることができたんかなぁ。
前述のLINEの内容だけでは、その点は不明です。このLINEでのお知らせに私は返答に困りました。そして、次のように返信しました。
「ひとまず安心したね。よかったです。
奥さんは、引き続き安静にかな?お大事に‼️
そして、寄り添ってあげてくださいね。」
この文章で後輩K君が何かしら気づいてくれたなら、私と彼との意思の疎通はたいしたもんです。
引き続きのK君からの返信は「ありがとうございますッ!」の一言でした。
うぅーー、、、気づいてないかも、、、。

奥さんの容態が落ち着いたら夫婦で参拝に来て下るそうなので、その時に、ご諭達をもとにおたすけの在り方について語り合ってみたいと思う。

🔸ここで記事は一応終わりです
以下はオマケというにはあまりにも恐縮なんですが、過去のご諭達を引用してますので、宜しければ引き続きお付き合いくださいマセ。
ていうと読んじゃうよね笑笑

▫️まるりんさんの記事を読んで、改めて、おたすけについて考えることができましたよ。
現真柱様よりお出しいただくご諭達は、とてもシンプルだけど、「この点はしっかりと。決してブレないように!」と肝心要のエッセンスをお示し下さいますよね。

21年前、諭達第2号をご発表いただいた時、私は直ぐに『涵養』という言葉の意味を調べたんですよ。(知らない言葉に出くわすと調べたがるサガ)

“自然に水がしみこむように、徐々に教え養うこと。 だんだんに養い育てること”とある。
そして、元々の意味は、“水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること”だそうだ。

このことを踏まえて、以下に諭達第2号を引用し、おたすけに邁進する私達よふぼくの、心の置き所を確認してみたいなと思います。

立教169年1月26日、教祖120年祭を勤めるに先立ち、思うところを述べて、全教が仕切って成人の心を定め、実動するよすがとしたい。

成人とはをやの思いに近づく歩みである。をやの思いは、陽気ぐらしを楽しみにこの世人間をお創り下された元初まりの思召に始まり、世界一れつをたすけるために天降られた立教の元一日に続く。

以来、月日のやしろとお定まり下された教祖は、50年の長きにわたり、よろづ委細の元の理を明かし、つとめを教え、たすけ一条の道の次第を整えられるとともに、ひながたの親として、身を以て道の子の通り方を示し、ひたすら子供の成人をお促し下された。

なおその上に、子供可愛い故、定命を縮めて現身を隠されて後も、広くさづけの理を渡し、存命のお働きを以て、今も変わることなく私たちをお導き下されている。

まさに、

にちへにをやのしやんとゆうものわ 
たすけるもよふばかりをもてる  (14-35)

と仰せ下さるところである。

この果てしない親心にお応えする道は、人をたすける心の涵養と実践を措いて無い。

いかに文明が進歩しようとも、病む人は絶えず、悩みの種は尽きない。心が救われることはない。それは元を知らぬからである。人間生活の目指すべきところを知らぬからである。

いまゝでにないたすけをばするからハ 
もとをしらさん事にをいてわ  (9-29)

と仰せられるように、元を教えてたすけることこそ、この道のたすけの神髄である。

確かな拠り所を持たぬが故に、我欲に走り、安逸に流れがちな人々に、心の定規を提示し、元なるをやの思いをにをいがけることは、よふぼくに委ねられた使命である。先ずは、自らが教えに基づく生き方を日々実行し、身近な人達に信仰の喜びを伝えることが肝要である。

身上に苦しみ、事情に悩む人のおたすけに真実を尽くすことこそ、よふぼくの何よりの任務である。私達の周りにも、多くのたすけを必要とする人がいる。周囲に心を配り、機を逃さぬ親身のおたすけを心掛けたい。

「人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かる」

との御教示を胸に、常々に人だすけを念じ、心掛け、一れつ相和す陽気づくめの世の実現を期して、弛むことなく世界たすけの歩みを進めよう。

また、一人ひとりが誠の心で通るところ、内々は自ずと睦まじく治まり、世の人々にも成程の理が映るとお諭し下さる。親神様の限りなき御守護に感謝し、与えを喜び、成程の人として土地所に陽気ぐらしの種を蒔こう。

世の中が目まぐるしく移り変わる中で、人々の価値観は揺らぎ、心の絆が失われゆく今日、なおさらに世相に流されることなく、教祖のひながたを目標として、変わることなき誠の道を踏み行い、世に映してゆかねばならない。

この道を歩むお互いが、心の向きを揃え、挙ってたすけ一条に邁進して、「今からたすけするのやで」と、やしろの扉を開いて、世界ろくぢに踏み均しに出られた教祖の大いなるお心にお応えしたい。

教祖の年祭を成人の節目として、真実を集め、力を尽くされた先人達の足跡の上に、更なる実を積み重ねるべく、全教が勇んで立ち上がり、一手一つに勤め切ることを切望する。

         立教165年10月26日  真柱 中山善司

4代真柱様 諭達第2号

余計なことを言うのは慎みますよ、読んで字の如く、とはまさに諭達第2号ですね。

更に遡って、真柱継承奉告祭の節目にお示し下さった諭達第1号では、

人をたすける心は、何よりも親神様の思召に適う誠真実である。

とあり、

をやの思いを求めて、教えに基づく生き方を心掛けよう。

とお示し下さいました。

今回、過去の諭達も含めて、おたすけに掛かる自分自身の心の在り方や日々の基本姿勢などを再点検する機会を得られて、反省猛省の連続でした。

おたすけでは、たすけ主はどこまでも親神様であって自分自身ではない、常に誠の心で寄り添う。
誠真実なら、“諭してやろう”などというセンセー目線は生まれない。
そして、調子こいてお諭しっぽくお伝えしようとするその内容は、高い確率で的外れかもよ。まずは、たすけを求めるお相手の胸の内に耳を傾ける、じっくりと聴く、これですね。

このたびの諭達第4号を胸に、たすけ心を更に涵養して、おたすけに心を込めたいなと思います。

追伸 :   後輩K君は、決して頓珍漢な信仰者ではなく、熱心でひたむきに道を求める素晴らしいよふぼくさんです。ただ、“熱心”が時に空回りするだけなんです。たまに。
彼の名誉のために記しておきますね、、。

追伸2  :  「身上さとし」。私、それは言わない派です。なんか責め道具みたいでイヤなんです。ドヤ顔で諭すセンセーがイヤなんです。言ってみたところで、だいたいの場合、相手には響かないんです。私みたいな未熟者が、もし身上さとしを言おうものなら、それはただの受け売りにしかならないことを自分自身が一番分かってます。。。
※あくまでも個人的見解ですので。


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