神様は喜んで下さっていますよ…的な ~心に寄り添うを改めて考えてみる~

「神様は喜んで下さいます」
「神様はお受け取り下さいます」
…って、何を?
 これを、最初に言っちゃうセンセーが、この道をだめにしていると思っている、まるりんこと私です。

「神様は喜んで下さいます」
「神様はお受け取り下さいます」
 って、スーパーキラーワードですよね。もう、これ言われちゃったら何も言えない、この後に何も言う必要が無いのです。いえ、決して(この時点では)悪い意味で言ってないです。
・勇んでにおいがけにでたものの、思うように行かなかった。
・相手のことを思い、よかれと思ってしたことが、喜んでいただけなかったどころか、嫌みを言われた 等々
 落ち込みがちな私の心を、折れる寸前の心を、最後の一線で支えてくれる親心あふれる優しい言葉です。
 平常時に言われると「そんなこと解ってるワイ(怒)」みたいに思っていても、下を向いて帰ってきたときに言われたりすると、明日も行ってみるか…なんて思うくらい効果てきめんだったりします。

 故に、安売りされちゃうとヒジョーに困惑を生む言葉に成り下がってしまうと思うのです。

e.g
a「路傍講演なんて意味ないですよね」
セ「神様は喜んでくださいますよ」
この道ではありがちで、うっかり流してしまいがちな会話ですが、このやりとりって、意味わかんないですよ。
…と、ここまで読んで「?」なセンセー、かなり重症ですよ。
 このセンセー、間違いなくaを励まそうと言っているであろうことは感じます。けど、全然aに寄り添ってないですね。
 aは、路傍講演の意味に疑問を感じているのに、センセーはその行動を神様が受け取っていると言っている。aの心の中なんかに興味がないんですよ。
 確かに、「つべこべ言わずやっとけ」私も言います。けど、問題を提示し、疑問や持論で反論、それに応える…そういう話の流れの中でいきなり「神様は喜んでくださいますよ」と言われましても、それは何について応えているのか…
 言葉悪いですが、神様目線で、あたかも自分が神様の代弁者であるかのような振る舞いは、神様、そして疑問を感じている人、その双方の心にまったく寄り添っていないのではないでしょうか。

 以前、「まるりんが次に言うことは、だいたい判る」と、よく言われました。受け答えがパターン化して、一方的な答しか返って来ないというのです。
 こちらは、よほど素晴らしい神様の思召を伝えていたと思っていたのですが、どうやらそこではコミュニケーションが成り立っていなかったようです。
 こちらが伝えたいことを伝えるのはとても大切な事ですが、相手が何を思っているか、何をみているのかという心の中に興味を持つことは、さらに大切な事だと(すごーく時間をかけて)学びました。
「こういう風に言ってくる人には…」「こういう考え方の人には…」「こういう言葉には…」こちらの定規で評価しながら話を聞き、勝手にカテゴライズし、定型文から答えをチョイスする。
 センセ―は、よほど良いことを言っているつもりでも、実は、場もタイミングも外している。そんなセンセーにたまに出会います。
 まして、人の会話に横入りしておいて、反論されるとトラブルは回避とばかりに姿を消す。始めから参加しなきゃ良いのに…。
 あげく、自分が話の流れや人の話を理解していないのに、言いたいことが伝わらないとシステムの責任にしたりして。

 先の路傍講演に話を戻せば、
【路傍講演は神様が喜ぶ】
で、終わってしまえば路傍講演が目的となってしまいます。路傍講演は神様が喜ぶためにするんですよね?
【路傍講演は、親神様、教祖の教えを伝える行為】
 私は、路傍講演の意味とは、こういうことだと思います。
 教内的に言えば、にをいがけの一環ということでしょう。故に神様にお喜びいただける行為だとも思っています 。ひとことはなしはひのきしん…ですから。
 このことにたどり着くまでに、沢山の先輩にお話をうかがい、色々な仮説をためしました。
 かるーく「神様があre」とか言われちゃうと、ホントがっかりしちゃいます。
 マイクを使ったりやめたり、パネルを作ったり、のぼりをもったり、原稿に頭を悩めたり、人数を増やしたり減らしたり 等々。何とも、真正面から取り組んでいる人々が軽く扱われた気がしました。
 ええ、もちろん全ての努力を神様が受け取って下さっていると思います。けど、私がみた景色は、私が心の中で描いたことは路傍講演とは…なんです。この態度を神様は受け取って下さっていると思うんです。

 諭達第3号に
 おたすけは、…中略…、胸の内に耳を傾け、寄り添うとともに、をやの声を伝え…後略
 と、あります。どうも「をやの声を伝え」ることばっかりに注力して、「胸の内に耳を傾け」ることが軽く扱われているように思います。
 「胸の内に耳を傾け」る事の方が順序が先なのに、「をやの声を伝え」たくてしょうがないからか、「胸の内に耳を傾け」ることをおざなりにして、独りよがりの言葉を発してしまう。それは、得てして相手の心を傷つけ、つき離していくに等しい行いであろうと思います。

 ひとことで、相手に伝わる言葉をチョイスすることにこだわるあまり、言葉が足らなくなるならまだしも、自分の言いたいことが先行してしまい、相手の胸の内から目が離れてしまうことがなんになるのか?本当に解りません。 ましてや、公衆の面前で「あの人は判っていない」等と他人を評価して、いったい何になるのか…

 話は変わりますが、人の話を聴いて、何について悩んでいるか少し解ったとき、実は私の出来ることなんて何もないことに気がついたりします。
 もしかしたら思いつきや定型的に出した言葉が、相手の心に引っかかる可能性はあるかも知れません。むしろすごいセンセーは、その可能性がすこぶる高いのでしょう。故に「胸の内に耳を傾け」る作業や気持ちの優先度が低くなってしまうのでしょう。私のような凡人にはその領域のことは解りませんが、過日の体験では、そのひと言に無性にやるせない思いをしたことが、この記事を記す動機となりました。

 おたすけって、一方的に親の声を伝えることではないと思いますが、それって認識の違いでしょうか?

 辛辣な苦言お待ちいたしております。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?