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終焉 〜出直し方〜

「総員 死ニ方用意」とは、太平洋戦争末期、帝国海軍最後の艦隊での話だ。
旗艦大和以下数隻での、片道燃料(実は往復分量が積載されていた)作戦の出撃時、皇居遥拝と故郷遥拝が行われ、特攻を課せられた少年兵は涙ながらに祖国に別れを告げた。
そして、潮風の吹く甲板に無造作に置かれた黒板には「総員 死ニ方用意」と書かれていた。
映画「男たちの大和/YAMATO」でもこのシーンが描かれていた。

「男たちの大和/YAMATO」シーン

この生々しい実話は、当事者たちや歴史家たちによって多少は色付けされながらも、ほぼ原型を留めて今日まで語り継がれている。

「死ニ方用意」
壮絶ですよね。絶句してしまいます。

さて、よく耳にする何気ない会話の一つとして、
・自分の布団で静かに人生を終えたいね
・家族に迷惑や苦労をかけることなくね
・苦しまずに、さささッとね
・元気に老いたいね
と聞きますね。主に高齢者の方々に多いかな、この会話。まだまだ働き盛りの方々でも、たまには自身の終焉についてこんな様なことを仰るかもしれませんね。
これって、つまり、「死ニ方用意」に他ならないですよね。
誰しも大往生で人生を締めくくりたいと望んでいます。

ここでまず、天理教の生死観をおさえておきますね。天理教ホームページに以下のように説明されています。

天理教では、人の死を「出直し(でなおし)」といいます。親神様からの「かりもの」である身体をお返しすることを指します。
出直しの語は元来、「最初からもう一度やり直すこと」を意味することからも察せられるように、死は再生の契機であり、それぞれの魂に応じて、また新しい身体を借りてこの世に帰ってくる「生まれ替わり」のための出発点であることが含まれています。
前生までの“心の道”であるいんねんを刻んだ魂は、新しい身体を借りて蘇り、今生の心づかいによる変容を受け、「出直し」「生まれ替わり」を経て、また来生へと生まれ出ます。

•生命のバトンタッチ
一般的には、誕生はめでたく、死は何か暗い、忌まわしいものと考えがちですが、本教では「出直し」「生まれ替わり」と教えられます。
死は、それで終わり、それっきりというようなものではなく、生まれ替わり、つまり再生のための節目、出発点であるということです。
少し考えてみれば分かることですが、死がなければ誕生もあり得ません。死ぬ者がなくて生まれる者ばかりであったら、たちまち地球は人であふれかえってしまいます。そう考えますと、誕生と死は一つのものであり、切り離すことのできないものであることが分かります。
連綿と続く生命の営み、命のサイクルの節目を言い表す「出直し」「生まれ替わり」。その言葉自体に、死というものが終わりではなく、再生へのスタートであり、誕生が単なる生命の始まりではなく、前生よりの命を引き継いでいるものであることが含意されています。大きな生命の流れの中でのバトンタッチを繰り返しながら、陽気ぐらしへの歩みが進められていくのです。

天理教ホームページ
https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/oshie/denaoshi/


以下に、お二方の出直し方についてそれぞれ記してみますね。

94歳の男性よふぼくさんが出直しました。終焉の様子を88歳の奥さんからお聞きしました。
「数年前から認知症が出てね、だけど、元気でデイサービスに通ってたの。前日もいつものように夕食を食べて、ベットに連れてって。そしたら、いつもはそのまま横になって寝付くんだけど、その日は神棚に向かって神様とみたま様を拝んでね。あら珍しい、なんて思ったのよ。で、翌朝はデイサービスがお休みだから、ま、起こさずにゆっくりと寝かせてあげましょう、て思ってたらいつまで経っても起きないの。『お父ちゃん、そろそろ起きたら』て声をかけても反応が無くって。それで額に触れると何だかヒンヤリ。あれ?身体を揺さぶってもピクリともしないの。慌てて救急車を呼んで。病院までの道中で心臓が止まったみたいで、搬送先で死亡が確認されたのよ。」
とのこと。
私はその話を聞いてて涙が出ました。
歳を重ね、自身の衣食住すらままならない状態で、恐らく神棚を拝むことすら思い出せない日々。だけど、前日の晩は、寝付く前に思考回路が繋がったのか、神棚に手を合わせた。親神様とみたま様に礼拝した。翌朝、日の出とともにゆっくりと生涯を閉じた。
いつもニコニコとして、物静かで、言葉が柔らかく、温厚な方。タバコを片手に、美味しそうに日本酒をちびりちびりと味わう、その姿が思い出されました。
まさに、大往生だったんですね。
多くのお子さんお孫さんひ孫さんに囲まれての、心温まるお葬儀でしたよ。

また別の方。
70歳男性。奥様に先立たれたのち高齢者施設に入居なさっていました。
いつものように入居仲間とテーブルを囲み昼食を摂りました。いつものように楽しい会話での食事。出されたもの全てを美味しく食べて、「あぁ美味しかった、ごちそうさま」といってすぐ近くのソファに移動して、そこに身を委ね、そのまま目を瞑りました。
職員さんは、「お昼寝かしら」と思ったそうです。と、身動きしない、寝息がない、あれ?
なんとそのまま終焉を迎えたのでした。
仲間と共に楽しく食事をして、食後はゆっくりとソファにもたれ、そしてそのまま。
これまた、まさに大往生ですね。

※「大往生」という言葉を使いましたが、本来は「極楽往生」由来の仏教系の言葉だと承知しています。また遺族以外はあまり使わない方がいいとも認識してますが、この記事では使わせて頂きますね。

教会長になって10年。これまで39名の方々をお送りしました。
上記のような大往生は稀です。
病院や施設の病床で終焉、という方がほとんどです。
浴室やお手洗いで終焉という方も数名いらっしゃいました。
お若い方もいらっしゃいました。

自分の布団で逝きたい
苦しまずに逝きたい
迷惑をかけずに逝きたい

私たちは、人様の助かりや幸せを願うことを第一として神様と向き合いますが、自分の事を願っても良いですよね。

しかしながら。ここからがミソ。
熱心に信仰したらきっと長生きできる、きっと良い終焉を迎えられる、と思いたいけど、なかなかそうはならないですよね。
出直し方は親神様がお決め下さるから。
だから告別詞には『いかなる親神の御量りにや』と、思召を思案したり探ったりしようとする意思の現れのような文言がありますね。誄詞も然りですね。この文言は昔から定型文のように存在していますね。
信仰の度合いと出直し方は決してイコールではない。なんでなんだろう?と、昔の教会長さんやよふぼくさんも悩んだんでしょうね。で、答えがわからないから「いんねんの思案」という沼にハマってしまうんでしょうね。

今回は、“いんねんの思案”についての記事ではありませんよ。終焉の迎え方。出直し方です。

そして出直し方の答えは
そう、「親神様がお決め下さる」です。

「あんなに熱心に信仰してたのに、なんであんな残念な出直し方だったんだろう」て聞きませんか?
前述の大往生されたお二方には大変失礼な言い方になりますが、話を深めるために書きますね。
実は、お二方は、大変恐縮ながら言わせて頂くと、そんなに熱心な信仰者ではありませんでした。
だけど、誰もが望むような出直し方でした。

ここまで、出直し方について書いているのは、まさに出直した時の状況。終焉のこと。
この記事で私が申し上げたいのは、終焉ではなくて「終活」のことなんです。
「終焉を迎えるまでにするべき事」です。

大往生のお二方、そんなに熱心ではなかった、と私は書きました。しかしそれは、私たち側(教会側)の浅はかな視点。お二方とも、家族親族の深い深い悲しみの中でのお式でした。そしてお二方ともお子さんは女性ばかりで、既に嫁がれています。つまり、家の跡取りが不在。
だけど、お二方とも、お式の喪主は、後に残された自身の伴侶ではなくて、嫁がれた娘さんのご主人さん、つまり義理の息子さんが勤めました。
そして、将来的には、妻の実家の神棚に祀られている神実様とみたま様を、義理の息子さん宅に迎えて下さる話がまとまっていました。
素晴らしいですよね。
素晴らしい「終活」の賜物だと思います。
以前に書いた私の記事「永代供養的な」の真逆のような話ですよ。
“そんなに熱心な信仰者ではなかった”との視点を持った自分を恥じました。反省しました。
上記のお二方は、日々の生活に“親神様と私”という確かな信仰の姿があったに違いない。だからこそ、ちゃんと、真っ直ぐに信仰やご先祖様大事という姿が次代へと伝わり、受け継がれていたんですね。

私たち、この道の信仰者は、良い終焉を願うばかりではなく、しっかりと次代へと信仰を伝えるという「終活」をするのが大切です。
その結果、いつ終焉を迎えてもなんの心配もなく、きっと心穏やかな終焉を迎えられるはずです。

〜追記〜
「あの方は信仰熱心ではない」
と言うことなかれ
・眠っているよふぼくさん
・もう縁が切れてしまったよふぼくさん
これも言うことなかれ
それは全て教会側の視点
それは全て教会側の怠慢

今週もお読みいただきありがとうございました。

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