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晴天心

おやさま110年祭が勤められた年の3月に、検定講習前期(現在の教人講習)にいった。20代だった。
同じ教会に繋がる、重めの身上の方と共に。
身上の方のお世話取りで、付き添いとして。といえば聞こえはいいが、その当時、私自身も心が病んでいた。ホントは1人でじっくりとゆっくりと受講したかったが、父親からの仰せで、カタチは身上者の付き添いとしての受講だった。

一緒に行った方のおたすけのこと、自分自身の信仰のこと、進路のこと、恋愛のこと、いろんな悩みを抱えた状態だったので、毎日曇り空のような心の状態だった。
なので、30年近く以前のことでもあり、いまでは受講内容はさっぱり覚えていない。
唯一記憶にあるのは、教祖伝の授業のこと。講師はご婦人さんでした。おやさまのお話しをなさる時は、感極まっていつも涙ながらに語っておられた姿だけ、かろうじて記憶にある。

さて、講習は、修養科と違って男女共学のクラス。いろんな方がいらっしゃった。
その中で、長野県から来られていた私よりも年上の女性がいて、とても手先の器用な方がいた。アクセサリーを作ったり、イラストを描いたり、小物を作ったり。そして、メッセージを添えてクラスの人たちに「よかったら使ってくださいネ」て、配ってた。

ある日の朝、「藤田さん、おはようございまーす。コレ、よかったら使ってね」と手渡されたのは、しおり🔖でした。
読書の時にブックマークするやつ。

綺麗な和紙を丁寧にラミネートして、赤い平紐がくくりつけてある、シンプルな逸品。
そして、ラミネートされた和紙には、おそらくこの方の手筆であろう、とてもデザイン性のある字体でこう書かれていた。
『藤田さん、心はいつも晴天ですか?』と。
私は、「はっ!」となった。

「なんだ??!!
この方は、俺の心の状態が読めるのか!?」
一瞬考えたが、すぐに気づいた。
『心の状態が態度や表情に出てるんだな』と。

晴天とは、英語ならばclear sky。
雲ひとつない晴れわたった青空。
そよ風で大気がゆっくりと流れる青空のもとでは、みんな笑顔になれる。空の向こうには明日がある。
“心はいつも晴天ですか?”
の意味するところは、
“心は一点の曇りもなく、澄みわたっていますか?”となるのかな。

曇りがあるかどうかは、お教えいただく「八つのほこり」を基準に自らを顧みれば良い。
そして、心が晴れない原因を探れば良い。
その時の私は、断じて晴天の心るらではなかった。冒頭に述べたように、心は病んでいた。
「親神様の御教えを聞かせていただきながら、なおも心が晴れないのは、よふぼくとして失格だなぁ、、、」と反省した。

せっかく講習に来ているんだ。

ここは、おぢばだ。

いつでも甘露台を拝することができる。

甘露台の1番近くで、いつでも誰でもできるひきのしん、回廊拭きひのきしんをやろう。

そして、心もピカピカに磨こう。

と決めて、昼休みは神殿に行きひのきしんをして、そして、一緒に受講している付き添いの方におさづけを取り次ぐことを続けた。

おかげで、付き添いの方は少しずつ元気になってきた。心が晴れないさまざまな原因が、些細なことのように思えてきた。それは、おぢばに身を置いているありがたさ、嬉しさ、感謝感謝の毎日になってきたからだ。

「心はいつも晴天ですか?」と問われた以降の日々は、身も心も本当に充実したものとなった。

「おさしづ」には“晴天”の言葉が数多くあるが、総じて、晴れの日もあれば曇りの日もある、晴天であれば親神様の御守護も速やかに、という意味でお仕込み下さる。
次のおさしづは、その最たるお言葉じゃないかなぁと思うので引用します。

明治二十一年八月九日(陰暦七月二日)
親様よりおさづけを受けなさる人に、諭しある事を傍にて日々取次致し、めん/\もその理を写したき願

さあ/\心うっとしいてはどうもならん。うっとしい日には何をすれども速やかなる事出けん。この理を一つ聞き分け/\/\。又晴天の日の心を以て何事もすれば、晴天というものは何をすれども、速やかな事が出けるものである。世界中曇り無けねば気も晴れる。速やかなるものである。めん/\も心よりこうのうという理を無けねばならん。晴天の如くの心を定め。この理もよく忘れんよう。

さあ/\順々の道の理を運んで、たすけ一条の理を聞き分けるのが一つの理である。


さあ/\遠く所は、一度何度にも向かう。心一つの理によって、互い/\の誠の心がたすけのこうのうの理である。この世の親という理はめん/\の二人より外にある理はあろうまい。その親を離れて何処で我が身が育とうか。親という理が外にもう一人あろうまいがな。皆々々聞いて置け。神の話は見えん先に言うのが神の話や、をやの話や。さあ/\この話の理を忘れんよう。神の話というものは、聞かして後で皆々寄合うて難儀するような事は教えんで。言わんでな。五十年以来から何にも知らん者ばかし寄せて、神の話聞かして理を諭して、さあ/\元一つの理をよう忘れんように聞かし置く。さあ/\それでだん/\成り立ち来たる道。
又一つの理

さあ/\人間の誠の心の理が人の身を救けるのやで。さあ/\人の誠の心が我が身救かるのやで。皆々めん/\もこの理を心から聞き取りて、我が身が救かるのやで。

おさしづ 明治21年8月9日

心が曇ってしまっては、せっかく戴けるはずの御守護も洩らしてしまう。
澄み切った青空のように、一点の曇りもなく、できれば「八つのほこり」の心遣いも抑えこんで勤めるならば、誠の心が治って、天の与えも充分に戴ける。

おさしづに「晴」の言葉が多いのは、やはり、何事も見抜き見通したる親神様が、願い出る方々の心の内を見澄まされて、「あなたは、まずは、自分自身の心に晴天を治めて、誠の心をもって信心しなさいよ、おたすけしなさいよ。」とご指摘なのかも知れない。

あ、そうそう、ダスキン2代目社長である駒井茂春さんの著書「苦労を喜ぶ晴天の心」は良き参考書。
ちなみに、ダスキン創業者で初代社長鈴木清一さんは金光教の信仰者だったみたいよ。なんだか興味深いねぇ。

Twitter(現𝕏)にて、1年間あまり、毎朝「今日も晴天の心でお過ごしください☀️」と投稿し続けてきた。(2024年3月末で毎朝の投稿はいったん終えたが)
繋がる皆さんと「晴天心」を共有したいなと思って始めたものだが、実は、自分自身に言い聞かせるための投稿。おかげで思案の片隅には常に「晴天の心」クセがついたかなと自分なりに思ってはいる。
一日の中でも、晴れ、曇り、雨、嵐、と心の状態は目まぐるしく変容するが、できれば晴れの割合が多くなるように、そして、心が疲れてしまわないように、親神様の御教えに自分自身の心を添わせて、この先も信心の道を地道に地味に進みたいなと心に誓っています。

おぢばにて講習を受講した尊い日々で、「晴天心」の教えをいただいた。
信心の座右の銘「晴天心」。

晴天心☀️
いい言葉。

-おまけ1-
毎月お伺いする講社の一つが兵庫県相生市にあるんだけど、その西隣りに赤穂市がある。
なんと、そこには、その名も“晴天分教会”という、つくづく羨ましい名称があるんよね☀️
毎月付近を通っているから一度は参拝したいと機を窺ってます

-おまけ2-
安井幹夫先生の著書はどれも難しいからとっつきにくいんよね、、、
いつかは読むとして。

では、また来週👋



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