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見えると見えない



『抽象度の高い人には抽象度の低い世界は見えるけど、具体的な世界の人には抽象度の高い世界は見えない』

抽象度の高い低いで見える世界は異なります。
それは一体どういうことか、見えると見えないは何が違うのか。

ソシオニクスの次元にも関係してくるので、類型論にも関連づけていこうかなと思います。




抽象度とは

抽象度は、物事を一般化して考えている度合いで、どの視点で物事を考えていて、その視点でどれくらい情報量があるか。
高い低いは情報量の度合いです。

一般化:
広く行き渡らせること。広く全体に通用するものとすること。広く普遍的に通用することとみなすこと。


高いほど抽象の広い範囲の情報をまとめる解釈力、抽象的思考力が必要になります。
より高い視点、より広い視野で考えるときに用いられます。普遍性が高い、視点が高い。

全体像をつかむ、本質をつかむとは、抽象度が高いものをまとめる力でもあります。

解釈:
文書ばかりではなく,人間の身ぶり,表情をはじめ,習慣,制度,宗教,学問,芸術など人間精神の所産を方法論的に理解すること。


「視点」「解釈」「普遍性」とか‥そういう言葉があると知っていても実際にそれを認識できないと理解が難しいかもしれせん。

抽象度は扱う主語の大きさで変わります。

人によって抽象度(扱える背景情報量と視点)が異なるため、抽象度の低い人が抽象度の高い視点(抽象的)で話をする時、自分の視点がなければ夢ポエム的になるのはそのためです。

具体的に説明すると、

←高 人間>>>>>>>>>Aさん→低い

抽象度が抵いほど、固有名詞や自分のまわりに限られたこと、「目に見えること」「読んだこと」等、具体的、主観の個人的な感想になり、解釈とは言えません。


抽象度の低い人の思考過程を見ていきます。

👀「Aさんは、ピーマンが嫌いだ」
↓(私もピーマンが嫌いだ)
🤔「ピーマン嫌いな人は多い印象がある」
↓(つまり)
💡「人間はピーマンが嫌いなんだ」

Aさんと自分にしか通用しないが、世の中はピーマンを嫌いな人が多いという情報が自分にあった場合、安易に「人間はピーマンが嫌いなんだ」と決めつけている事が分かります。

しかしこれは好き嫌いの傾向であって、『人間』に普遍的に適応されるものではありません。


「ピーマンが好きな人もいる」かもしれない

抽象度が低いと、他の可能性を(考えられないから)除外し、「ピーマンが嫌い」傾向枠に当てはめてしまうような考え方になります。


つまり、自分の視点だけで物事を一般化して考えているということが分かります。
自分が見えている認識だけで背景を深く想像できないまま決めつける、偏ったレッテルになる仕組みです。

よく「抽象的すぎて何を言ってるのか分からない」と言われる人は、抽象度が低いので抽象的な話をするときに具体的に言語化できません。
これは抽象度が高いが上手く言語化できない、のとは意味が異なります。

抽象度が低ければ、抽象度が高い話を理解できません(意味が通じない)が、言語化できないだけなら抽象度が高い話を理解できます。

ここでの”理解する”は、相手の抽象度にある真の意図(伝えたい事)を背景から汲める、前提がわかるかどうかという話。

この違いで、自分の抽象度を推しはかる事ができます。

これではじめて前提の擦り合わせと建設的な会話※が成立します。

※自分は間違えているかもしれない、相手の言うことに理があるかもしれないという客観的な視野を持って、真実を解き明かそうという懐疑の姿勢は抽象度の高い人の特徴です。

これとは逆に、抽象度が低い人は、自らの信念の正しさを疑わずに主張したり行動したりする独断(思い込み)になり、人との会話が中々成り立ちません。茶化したり論破したりと建設的な議論にならずに衝突も多いかと思います。



「自分は正しい」
思い込みについての考察記事はこちら↓↓


抽象度と類型論




類型論は抽象度が高い理論です。
MBTIにおいては無意識に存在する意思決定背景の4つの指標パターン。
このパターンは「人間が決めるもの」でも「環境によって作られたもの」「そういう傾向」ではなく、最初から「あるもの」で普遍的なパターン。


見えない世界を知ろうとする抽象度の高い世界では各タイプ(価値観)には大きな差があり、別のタイプになろうなんて到底できないことが分かります。意識的に心臓を止めたり動かしたりできるでしょうか?それと同じように無意識の法則に意識的には介入できません。

しかしそこまで無意識に潜り構造を認識する人は滅多にいません。
ソシオニクスの識者によって意見がまちまちなのは、識者の抽象度の高低が関係しています。
これが見えると見えないの違いで、類型論よりも自身の抽象度が低ければ、高次元のグラデーション(特にNe、Ni)を判別できません。

高い人と低い人の物の見え方は、電子顕微鏡と肉眼ほどグラデーションが違います。

類型論は抽象構造にある普遍的なパターンですから、DNA🧬で、抽象的思考はそれを見るための電子顕微鏡に例えることができます。



『どの視点で物事を考えていて、その視点でどれくらい情報量があるか』ですが、電子顕微鏡と肉眼の違いからも分かるように、視点によって扱える情報量や情報処理(理解力)には違いがあります。

つまり普遍的な全体像を把握するにはかなりの抽象情報を扱うので「見えないものを見ようとする力」抽象的思考力が類型論を扱う上で必須になってきます。

この辺りが、MBTIは実際に使えない、占い程度の使われ方しか難しいのではと指摘される理由です。
その点エニアグラムは、抽象度が低く意識的な願望を取り扱うため、MBTIやソシオニクスよりも扱いやすい理論でしょう。
しかし”普遍的”ではない根源的欲求は、あくまで「傾向」であって矛盾が生じやすいものです。

このように抽象度の高低から、その人がどの理論を信頼するか興味を持つかも変わってくるのは面白いところです。

下図は自己分析深度と類型論の深度を示したものです。下に向かうほど抽象度は高いです。


MBTI公式は、普遍的なパターン、気質というより「傾向」の意味合いが強いようで受講者のために抽象度を下げて間口を広くしているのではないでしょうか。
そのためスタートラインとして意識表層にここでは位置付ています。


類型界隈には「公式絶対信者」や「自認警察」が時々現れますが、こういう方は、まず抽象度の理解や認識すら難しいのではないでしょうか。

何を信頼するのか自分の土台(背景)も抽象度で変わってくるので、抽象度が低ければ自分1人で物事の判断は難しく、それが正しいのかどうか「専門家」の意見や大勢の人に聞いてみたり確認したがる特徴にあります。
(抽象N &論理Tが苦手な人に多い)


また、自分の抽象度(自己解釈)だけで類型論を「全部理解できた」(認知が歪み自己解釈で閉じている状態)や、専門家や本の知識など外部から「教えて貰えば分かる」とは思わない方が良いでしょう。
教えてもらっても、それを確かめることも評価もできません。なぜなら、理解するには自分の抽象度(電子顕微鏡)がいるからです。


ソシオニクスの次元の質問は苦戦された人も多いかもしれませんが、どの質問も抽象度が高く、質問の意図をきちんと汲み取って言語化するのはかなり難しいです。
電子顕微鏡的な次元のグラデーションで見ていきましょうという趣旨なので、その評価も答えも各々の抽象度と言語化が試されます。

抽象度が低ければ、どの質問に対しても白黒、平坦になり、自分がその情報要素の高次元なのか低次元なのかの判別さえ難しいです。


グラデーションが認識できないと得意不得意が何かも分からないし、肉眼でDNAの違いを推しはかることができないように、ソシオニクスのどのタイプも自分に当てはまるように見える人もいるかもしれません。


ソシオニクスがよく分からないという人が続出する理由は、その人の抽象度の低さにありますし、抽象構造にある因果も繋がずに型に単純に当てはめてしまう人も多いです。

理論に基づいて自分の解釈に都度修正をかける姿勢がないと、自己解釈で閉じてしまい類型論は自己正当化の道具になる恐れがあります。


抽象度と姿勢の違い



抽象度は視野の広さ、全体像把握に影響します。
全体像把握ができないと「これはできるけど、あれはできない」と右を見て白、左を見て黒というような白黒評価の人は世の中に意外と多いです。


下は私が抽象度と抽象信頼度を関連づけて物事に取り組む姿勢を評価したものです。
抽象度が高いほど偏見がなくオープンマインド。

抽象度高(視野広い)
①全体像を把握し言語化できる
(抽象化、抽象的思考)
②全体像を把握するが上手く言語化できない
(解釈できると言語化可能)
③理解しようとしているが全体像を掴みにくい
(未知に興味がある、オープンな姿勢)


自己肯定・自己実現へ
ーーーーーーーー無意識の壁 ーーーーーーーー
承認欲求・自己否定

客観視点の獲得(自他境界の壁)


④認識できず言語化できない
「先を見通し過ぎて怖い」←見通せていない
(全体を見るのが怖い、未知への恐怖不安感)
⑤認識できないことも理解できない
分かったつもりで全体の話をしている
(主観のみ、自己正当化)
⑥認識できないことを恐れ、決めつける
(偏った全体像、白黒思い込み、レッテル)
抽象度抵(視野狭い)



この差はその人の抽象度、顕微鏡の精度を表しており、下に行くほど偏った世界、肉眼で物質に頼っており、安心安全、不安や恐れが強く精神自由度も低くなります。

上にいくほど固定観念は取っ払われるので、先入観は少なく精神自由度は高くなります。
認知の歪みは抽象度の低さ(固定観念に縛られた視野の狭さ)が影響していると私は考えています。

①の人と⑤の人の会話をシュミレーションすると、そもそもの互いの認識(抽象度)に大きな開きがあるので、①は⑤の認識の方に寄せて、肉眼の景色だけで見える世界をテーマの話になり、電子顕微鏡で見える世界を肉眼の人にいくら説明しても伝わりませんし、話を理解できません。

抽象度の高い人には抽象度の低い世界は見えるけど、具体的な世界の人には抽象度の高い世界は見えないからです。

自分の認識(抽象度)にこだわるとそもそも会話 はできませんし、こういった認識の違いも知らずに「理解し合える」だとか「誰も分かってくれない」なんて言うのは、自分の抽象度の押し付けでしかないと分かると思います。
それはただ肉眼で物事を見る人が世の中には多いからそう言えるのであって、私が電子顕微鏡で見える世界について話せば、分からない人がいるのは当然のことです。


SタイプとNタイプが互いが理解し合うには「抽象度(認識)が違うと前提のすり合わせすら難しい」まずこれを理解し合わないといけません。

抽象を信頼するNタイプは「相手に分かるように説明する力(比喩力)」が必然的に鍛えられ、抽象具象の行き来を繰り返すことで抽象的思考力が向上心言語化できるようになります。

ぜひ抽象度の高い人との会話を楽しんで、顕微鏡の精度を上げていきましょう。
無意識にオープンな姿勢であれば、どんな人でも気付きと学びが深まります。



抽象度が高いとは



『高いほど抽象の広い範囲の情報をまとめる解釈力が必要』と言いましたが、「人間」という抽象的な規模の大きい言葉を扱うには、人間について要約する必要があるので、主語が大きくなるほど扱う情報量は膨大になります。

『1を聞いて10を知る』という言葉がありますが、物事の背景を少ない情報から素早く汲み取り理解する力、抽象度の高さを示す言葉でもあります。


低「多くの人は」→例外もあるかもしれない

高「人間とは」→普遍的な真理

扱う主語の違い



先ほどのように、「ピーマンは嫌い」というように詳細情報を集めていたら「人間とは」を要約できず、抽象を扱うことはできません。すぐに容量オーバー🤯になります。

抽象の情報をまとめるには、目で見る、話を聞く、本を読むだけではなくて、「真に理解すること」解釈が必要になります。

物事、特に表現されたものを、自分の経験や判断力などによって理解すること

文の意を解き明かすこと

文書ばかりではなく,人間の身ぶり,表情をはじめ,習慣,制度,宗教,学問,芸術など人間精神の所産を方法論的に理解すること。

解釈

解釈の過程でSとNの認識する場所とまとめ方の違いが出てきます。

Sは感覚で得た具体的な情報を詳細にまとめていきます。
Nは膨大な情報をまとめる必要があるため、抽象化の過程を辿ります。(抽象的思考)

抽象化:「複数の情報に共通する要素を抜き出すこと」を意味する。
重要ではない細部の情報を取り除き、物事の本質を捉えるための思考法


抽象化を経てNeとNiはその後の過程が違うと私は考えています。

Neは様々な可能性を広げ続け、Siを経て収束した解釈を検証していきます。

Niは「多くの可能性(物事の背後にある膨大な情報)をひとつに収束する、本質に特化する」ために直観を信頼します。洞察し(解が先)それが真実であるかの可能性を持ち続けるための検証をひたすら重ねていく思考過程。

私は下図に記したような違いがあるのではないかと考えています。

Niは検証網を貼り巡らし、閃きの照度を挙げていく(真実の探究)ようなイメージです。

NeとNi


Nの言語化が難しいと言われるのは、こういった思考過程がとても複雑なことと、自分の頭の中を話すために、抽象化したものを具体化する必要があるからだと思います。

具体化:「漠然とした物事をはっきりとした形にすること」を意味する。
抽象的な法則や傾向などをもとに、アウトプットを生み出す思考法

この過程を経て、自分の”解釈”を他人と分かちあい、話ができるようになります。

言語化は抽象↔︎具象の往復作業の連続です。
自分の抽象高度から相手の高度に合わせた話(言語化)ができれば、自分の意見をよりシンプルに具体的な比喩を用いてまとめられるようになります。

解釈はそれぞれの思考過程において検証過程を経たものなので、N同士は互いの抽象化した解釈を交換し学び、刺激し合う関係性といえます。


抽象度が高いと世間話※は難しいですが、会話の幅がぐんと広がります。

会話相手と宇宙規模の話ができるので、例えば職業や今まで学んだ知識、経歴、能力、好き嫌いなどの個人的な事情が違っても意見交換ができます。

例えば「私は物理がさっぱりわからないから、アインシュタインと意見交換なんてできないな」とはならなず、宇宙についての自分の解釈を交換すれば良い。宇宙は全てに繋がっていますから学問的な隔たりもなく、枠組みを超えたコミュニケーションが可能です。


つまり『抽象度が合う』とは、同じ次元で話が合うということだ、と理解できたと思います。

※世間話は抽象度が低く世間や身の回りに限った話なので、高低差がありすぎて対応が難しくなります。


映画『メンインブラック』のラストシーン🎬
抽象具象の往復と、枠組みを超えたコミュニケーション、宇宙の視点がイメージしやすいと思います。地球の常識、社会の枠組で話をしてるわけではなく、普遍的なパターンの答えは宇宙にあります。


私は、誰と会話するにしても相手の座標に合わせたハイパージャンプが必要で、分析しながらじゃないと中々話が合いません。
遠いほど正確な位置取りがかなり難しいです。



深く理解するとは


抽象度が高いと抽象化した多くの解釈を持っています。

同じ言葉の別の意味をどれだけ沢山知っているか、つまり「解釈が多いほど理解が深い」=よく知っているということになります。

理解が深いとは、本にこう書いてあるからこうだ、読んだ、聞いたではありません。
文字を読むならすぐにできるが、その文字ひとつひとつが意味する背景を含めて掘り下げた理解、著者の言わんとすることを汲み取れるかどうかで深さが決まります。

これは映画の評価でも違いがあります。
難しい映画では「複雑すぎて訳がわからない」「登場人物が多すぎて誰に焦点を当てれば良いか分からない」「途中で収集がつかなくなっているのでは」などの感想を時々目にします。

私達は自分の抽象度で物事を判断し評価するため、抽象度の高い作品の全体像把握と解釈ができないまま身勝手な感想を述べがちです。
監督や映画が悪いのではなく、自分の抽象理解に問題であることが多いです。

一般ウケするのは、抽象度が低く状況説明のセリフが多いもの、分かりやすい喜怒哀楽のやり取りがあるもの、というのも世の中です。

ただ見つめ合う無言の数十秒の間に、目の動きや表情などからどんな心情背景が隠されているのか、それが何を意味するのか、物語の今後の展開へと想像を膨らませたり、今までの情報の繋がりを拾い集めて関連付けてまとめる作業は、抽象度が低いと中々難しいものです。

まさに「見たまま」では、起伏のない退屈なストーリー展開、退屈なシーン、セリフがないとすぐに「分かりにくい」「つまらない」となるので、そのためにセリフ(考えていることをいちいち言語化)が多用され、思い出振り返りシーンでいちいち登場人物の心情を言語化する必要が出てきます。

子ども向けのアニメは抽象度を下げて勧善懲悪で分かりやすくしています。悪は悪でしかない。
しかし、そういう作品でも別の視点で見れば深い背景に気がついたりします。

つまり、想像せずとも誰もが楽しめたり、解釈せずに見たままの一見分かりやすい作品ではあるが、その背景に隠された情報量が多いものも抽象度が高いと言えますし、シンプルすぎて難解なものもあります。

だから同じ作品を見て、個人の抽象度によっては感想は十人十色、どこまでその作品の背景が汲めるか全体像を認識できるのかを試されるような作品が抽象度が高いと言えます。

直近で私が観た抽象度の高い作品は『関心領域』がありました。


この作品は、独特な音と共に淡々とした日常が描かれていますが、目に見えない背景情報量が非常に多いです。
罵声、銃の音、モクモクと立ち上がる煙、その横で子どもたちが美しい庭で楽しく遊んだりくつろいでいます。
見える景色と聞こえる音が真逆の世界です。
時々挟まれるワンシーン、音を頼りにして想像を掻き立てさせます。

観客は、この異様な光景に不気味さを感じると思いますが、私達が実際そこに存在したら「当たり前」として見過ごしてしまうのではないか‥
目の前にある自分達の平穏だけにしか関心がない無関心の恐怖、何も見えない何も聞こえない認識すらしないことへの恐怖です。

この映画には「わけが分からなかった」「怖い」という感想だけの人もいれば、アウシュビッツの悲劇を深く受け止めた人もいる。
そして目には見えない背景、監督の未来への警告メッセージに気がついた人もいるでしょう。

どこまで深く解釈できるのか観客の抽象度を試されています。



見える人の役割



何を認識するのか、何を重視するのかは人によって、価値観によって認識は異なります。
自分の物の見方だけで、全てを理解したと安易に結論づける怖さ。
これをまず多くの人に知って欲しいなと思います。

よく見える人もいれば、あまり見えない人もいます。そして見えてもないのに分かったつもりの人もいます。

まさに『抽象度の高い人には抽象度の低い世界は見えるけど、具体的な世界の人には抽象度の高い世界は見えない』ですから、見える人は見えない人に腹を立てても仕方がないことです。
同じステージに立って喧嘩や口論をする必要はありませんし、そもそも認識が違うのだから前提の擦り合わせさえ無駄だとすぐに分かるでしょう。

見えない人には、認識できない未知が”ある”と知ること自体が恐怖なので、頑なに存在を疑い拒みます。未来を恐れるのは何も見えないからです。

下はアサクリのゲーム画像ですが、俯瞰はこのような視点で物事を眺めます。
これを見て先を見通しすぎて怖いなんてありますか?「どこから攻略しようかな」とワクワクすると思います。

全体像を掴むと物事の流れが手に取るように分かり、何が根本的な問題でこれからどうなっていくか未来が一目瞭然です。
戦略的にも仕事や問題解決に有利になりますし、無意識にオープンな姿勢があれば経験でいくらでも顕微鏡精度は高まります。
ぜひ自身の抽象度を高めて脳のパフォーマンスを上げていけば良いと思います。

見える人は心が寛大になるでしょうし、見えない人の成長を見守り、手を取り支えたり導くこともできます。


見えない人は、見える人と見えない人の区別さえ難しいので、何が真実なのかもよくわかりません。右往左往し人間不信になって当然です。
自分以外まわりの人は悪い人ではないかと疑いの目を向けたくなるでしょう。
何も見えないと何も信じられなくなりますが、これは何を信じていいいのか自分の軸が分からないからです。

だから立派な人、有名な人、専門家の意見を「間違いないだろう」と無意識に頼りにするわけで、自分で判断したり意思決定が難しい特徴があります。

もしそういう人がいれば、その方が信じられる範囲で手を差し伸べ、自分の知識や経験を伝えてください。
もちろん見えない抽象が怖くて拒否されることなんて当たり前ですから、その時は素直に「そうですか」と引き下がれば良いだけです。
嫌われることや恐れられることを怖がっていては何も始まりませんし、その人は自分が認知できない暗闇を怖がっており、あなたを恐れているわけではない。
成長と気付きを知らないだけです。

登山にたとえると分かりやすいです。
高いところからは遠くまで全体像をよく見渡せますが、低いところでは、まわりの木々しか見えず視界はよくありません。

抽象度が低いと肉眼の目に見える世界だけがたよりなので、今何が必要で何ができるのか、どっちの方向に進めば良いのかも分からないですし、「分かった気になる」と偏見や思い込み、認知の歪みを形成しやすいといえます。

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