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「自分は正しい」という思い込み

人生は航海によく喩えられる。

「自分が正しい」と思い込んでいる(先入観の強い)人は、自分が乗る船を知らないものだ。
自分の船を知らないとなぜ生きづらいか、何に囚われているのか、について考えてみた。



知らないことを知ろうとしない


「私は正しい」が前提にあると、知らないことを知ろうとしない。それは人生の航海を進めるリスクでしかないと私は思う。

船の構造を知らずに「自分は立派な船だ」と信じ込み、操縦も知らずに大海を目指していると豪語する。しかし、実際は高波にすぐ飲み込まれ、船底から水が漏れ出しても対処ができないだろう。

自分は完璧だと思い込むほど、船のメンテナンスさえできず、構造が分からなければ問題の根本的な原因を見つけ出し再設計して作り替えることもできない。
辛い現実は容赦なく「自分の正しさ」に襲いかかってくる。

「船底から水が漏れてきて大変だ、誰か穴を塞いでくれ」
「なんでこんな運命なんだ」
「船を作った親のせいだ」
「どうせ自分は〇〇育ちだ」

不満を言いながら、それでも「自分の正しさ」を改めようとはしないのは、自分が乗る船は完璧でなければいけない、それが理想そのものだから縛られる。

「知らないことを知ろうとしない」のは、大海に出ることが本筋ではなく、完璧な船である体裁を守りたいから。



“完璧な船“でなければいけない



完璧な船にこだわるのはなぜか。

自分の船はまわりに存在感を示せるものでなければならない。
でなければまわりから馬鹿にされ、海では生きてはいけない。
この海で生き残らなければいけないんだ。
そんな思いに駆られ、他の船と比べずにはいられない心理がこだわりをさらに強めていく。

あの人より豪華な照明、あの人より豪華な客室、自分はあの人より立派に見える船でなければならない。だから一流と評判の材料で飾り立て、見せびらかし自慢したくなるし、みんなに「凄いですね」と承認してもらいたい。

一流の豪華客船だと認められたいし、豪華客船の中でも1番素晴らしくありたい。

完璧な自分、理想像への執着はここから始まる。


自分が豪華客船だと信じ込むためには、自分は凄い船だとまわりに証明し続ける必要に迫られる。
何か自慢できるものはないか手当たり次第探してみるが、自分には何もないと境遇に落ち込む。

落ち込めば落ち込むほど、完璧な自分への承認欲求はどんどん自分を追い込んでいく。

でもよく考えてみて欲しい。
本当に理想に向かっているのなら、まわりにわざわざ完璧な自分を証明する必要はないし、堂々と航海を楽しめるはずなのに「自分の立派さを証明しなければいけない」と脅迫的に感じるのは、腹の底では自分に自信がないからで、まわりに見栄を張り続けなきゃいけない不安に怯えるからだ。

世間は立派な船を賞賛するだろうし、体裁を保つ事で船は沈まずにバランスを取るのかもしれない。
でもそれで船は前に進むだろうか。
体裁こそが真だとするなら、体裁を取り繕う自分は一体何者だろう。

自分は何者か、これが分からないから、必死で飾りつけを探すしかない。

本当はどちらが真か偽かではなく、飾りを含めたどれも自分自身だ。

理想的な体裁とリアルの自分の乖離は、完璧を維持しようとプライドに固執するようになる。

自分より優れている人がいても負けを認められず、自分の優位性を強調したがることもあるし、誰かが他人を褒めていると、妬ましさを感じて話を遮り、自分の良さを主張し始めたくもなる。

世間の目と上下ばかり気にして、隣にいる船を見て「お前の船は小さいな」と下げ、沈みそうな船を見ては「可哀想だ」と嘆き、他の豪華客船を見ては落胆し、嫉妬心から沈めてやろうと陰口を叩きたくなる。

世間体に囚われ自分の存在証明に躍起になると、航海を楽しむのではなく、他の船と比べ合っては沈め合う椅子取りゲームになってしまう。

外の船に自分を映しては「自分は外からどう見えるのか」が気になって仕方がなく肯定的なイメージを集めようとするから、肯定してくれる人を好きになるし、もっと褒めて欲しいと願う。

他者承認は、リアルの自分をどんどん置き去りにし「世間の理想」に沿うため重い足枷を自分につけていく。「今のままではダメだ」という焦りが常にあるが失敗が怖くて行動が伴わない。

このように「自分は正しい」は、自分の首を閉め続け、重い足枷をつける。

《理想像に執着する愚かさ》

自分の理想像に執着している人は自分が大人になっても心理的に自立出来ずに親にしがみついているのだと理解することである。
本人は立派なつもりかもしれないが恥ずかしいことをしているのだと理解することである。

加藤諦三




飾り付けの比べ合い


「船を知らずに船を比べる」のは、船ではなく船の飾り付けを比べ合っているに過ぎない。


飾り付けを比べたがるのは、世間がそれを評価指標にしているから。飾りつけをもっともっとと欲しがるし、どんなに飾りつけても船の性能は上がるわけではないから中々満足できない。

「飾り」というのは、その人そのものではなく、持っているもの。才能、過ごしてきた環境、学歴、仕事、資格、給料、肩書き、立場、家柄、友達の数、容姿‥

就職も相手を選ぶ時も不動産の物件探しのように、いかに自分が得をするか条件で判断している。

友達にも恋人候補にも履歴書でも書いて渡せばいいんじゃないかな?と思うくらい、条件しか見えてない人は世の中に多いが、自分を知らないと条件でしか比べることができないんだ。


また、自分を知らないと、その飾り付けが自分の船に合うのかと立ち止まって考えることもできない。

その結果、まわりの友達に恋人ができれば「自分も欲しい」となるし、隠キャだと嘆き、誰かと比べて私はブスだと悲観する。
親に言われた大学に入り、名の知れた企業に入れれば安心、まわりが結婚してたら焦りだす。
世間体に右往左往してるよね。

世間にそぐわない自分が嫌いだが、変えようにも自分の船の構造がわからない。

この心理状態が自分に個性が欲しいけどないと苦しめてる。


自己分析によって知り得る個性とは、世間体で輝く条件ではなく、船そのものだということに気がつけない


自分の意思ではなく、世間体に流されている。

世間体に合わせた仮面ばかりが増えてくる

益々自分が分からなくなる

この悪循環を繰り返す

世の中が認めるなら「自分にも合う」と自然に考えるのは、「世間から認めて欲しい」という願いが自分の根っこにあるからだ。

個性や才能を欲しがるのは、「個性を知る」のではなくて世の中からの承認が欲しい。

承認エネルギーで船が動くなら、承認されないと船は停滞する。
動くことができないと、現実逃避的な安らぎを求め、誤魔化しや、承認される居心地の良い場所、動けない理由探しが最優先事項になる。


動けない理由探しは、動けない原因究明ではないから動くためのものではない。
そして理由を探し求めるのは、潔く諦めたのではなく諦められないから。

抱えきれない自分を手放したくなり、他人に自分の悍ましい姿を見て、責める事で解消しようとする。被害妄想とネガティブな発想が、自分を許す心の拠り所になっていく。


『外的自己は内的自己の意志とは無関係に表面的に流され動くようになると、まるでその行動が他者によって決定されているかのように感じられ、内的自己から見れば外的自己は敵対者のように見え、他人が自分の内面に踏み込んでくるのではないかという警戒心や他人に操作されるのではないかという被害妄想に繋がってくる。
彼らが他責になるのは、主体性を失った外的自己を他人に映してしまい、それを「正さなくてはいけない」という心理からで、他者と自分の区別がつかない。』

  外的自己と内的自己の分裂と遊離


自分が発するネガティブワードは自分自身に向けられている事にぜひ気が付いて欲しい。
他者と自分の区別がつかない状態で、自分の船を蔑んでいるのは、むしろ自分自身だということに。

被害妄想に陥れば、他人(自分)が怖くて仕方がなくなる。誰も信じられない。

自分以外の船を沈めてしまいたいと思うだろう。そうすればもう比べる必要もなく安心できるし、安らぎを得られると短絡的に考えてしまう。


船の権力を誇示したくなるナルシシズムは、こうした自分のこだわりによって他者否定や偏見、優生思想や誇大妄想、自己顕示欲に繋がる。


「自分は正しいのだ」という証明は名誉や権力の奪い合いになり、前を向く可能性ではなく、自分の言い訳を探す後ろ向きの方向でしかない。

「たとえ後ろ向きでもその人の人生なんだから」という人はよくいる。依存を増やして分散化しようとか、自己正当化それもそうだと思う。

船の問題も航海を示す方向もわからないなら、もちろん人それぞれの人生を見守るのが、その人の尊重ということになるだろう。

しかし私はそこにある問題も方向も、分かっていながら「それもあなたの人生だ」と笑顔で横を通り過ぎる事など到底できないし、それは尊重でもなく自他への諦め、責任放棄になる。


変わる変わらないよりも前に、自分の状態を客観的に見る目を養い、自己認識していくことがまず大事で、そのためには、他人の指摘や意見に対して抵抗するのではなく「自分の至らなさを気付かせてくれた」と素直に受け入れる大きな器が必要だ。




傲慢さと誤解


「自分が正しい」と思えば他人に傲慢になる。
だっていつも自分は正しいのだから。
それと同時に、他の人間の傲慢な態度は受け付けないだろう。

自分の船の構造も知らずに「船について」自慢げに語り出せば「自分のことは棚に上げて他人にあれこれ言う人」だし、アドバイスを受けても「上から押し付けられた」と捉え、素直に受け入れられない。
意見を聞いても振り返る自分の船が分からず反省も難しいからだ。


「自分が正しい」人の特徴として、自分の正しさにこだわるあまり、他人からのアドバイスや批判的な意見を嫌う、というのがある。


これは、内容が分かった上で自分には必要がないと論理的に判断するものではなく、感情的な判断での嫌う。


何が正しいのか、何が最善なのかという物事についてではなく、「自分より目上」かどうか(立場)、自分と仲が良いかどうか(身内)など条件の良し悪しを判断し、従うか従わないか世間体に流されているに過ぎない。


なぜかというと「自分は正しい」人格を尊重してくれないと、自分のプライドが許さないから。
自分より下の者に馬鹿にされたくない、というプライド。

※検証していてよく分かるのが、たとえ同じ内容でも「専門家」「立場が上」など自分より上だと認識する条件さえあれば、「それはもっともな意見だ」とこういう人は鵜呑みにしてしまいやすい。

つまり内容を吟味できず騙されやすいからこそ
他人を疑う→結果的に視野が狭くなり認知が歪んでいく。

では、プライドに固執する傲慢さの正体とはなんだろう。


ディズニーの『美女と野獣』の物語で、傲慢な王子(野獣)が登場する。

王子は、訪ねてきた物乞いの老婆を見下し依頼を拒否したが、老婆が美しい魔女の姿に変わると態度を変えて懇願する。
王子は、人によって態度を変える人間で、飾りや体裁で人を判断しており、自分とは何者なのか、真実の愛とはなにかを知らなかった。

それに対して魔女は、王子の美しい容姿(飾り)を野獣の姿に変えてしまう。
体裁で取り繕った姿(王子)ではなく、ありのままの姿(野獣)を受け入れ、誰かに愛される事を知りなさい、ということだと私は解釈している。

王子の心が、飾りや条件ではなく、真実の愛に気が付けるか、魔女が課題を与えたところからこの物語は始まる。


野獣はこの後、偏見を持たない素直なベルと出会い、卑屈な性格が徐々に明るく前向きに変化していく。

ベルが野獣の心を変えたのは、ただお互いに好きになったからという単純な話ではなく、姿や条件に左右されないベルの真っ直ぐな心が、野獣の素直な心を見透かしたからだろう。


この2人の価値観の違い、意思決定背景の違いがよく分かると思う。

ベルは、野獣の容姿や、資産、立場などの体裁を重要視しない人だった。
それよりも、ベルには野獣の外見や印象を決めつけずに根気よく心を理解しようとする前向きな姿勢があった。


もしベルが、元々の王子の認識のように、条件で決めつけてしまう女性だとしたら、この2人は何も進展しなかっただろう。
ベルは「森に野獣がいて怖かった、酷い目にあった」と街に帰って話し、場合によっては「お父さんを閉じ込めた野獣は、危険だ!」とガストンと村人を引き連れて、すぐに野獣退治に向かうかもしれない。


ベルは、飾りや条件(体裁)ではなく、心の深い部分を認識しており、野獣自身も自分の心の深い部分をベルを通して見つめられたんだろうと思う。

野獣はプライドに固執していたが、本当は素直な心の持ち主だった。それをベルは少しずつ理解し心を解放していったように思う。

野獣とベル


普段は恐れられている野獣も、ベルの前では子どものように無邪気で、ベルとは親子のような関係性だった。
厳しくもあり温かい姿勢で、野獣の可能性に諦めずに寄り添っていたように思う。

野獣の心は、ベルのそばで驚くほど変化し、表情も感情も豊かになり人間らしくなっていった。

父親を心配し「家に帰りたい」というベルの願いを自分が大切にする鏡を渡して承諾した野獣の行動は、本当に彼女の幸福を願ったからだと思う。

ベルを家に返せば、王子の姿に戻る可能性はなくなり自分は一生孤独な野獣のままだというのに。自分の利益より、ベルを本当に愛していたから手放せたんだろう。

(続きはネタバレになるので、伏せます🌱)



まとめ


野獣の心境の変化からも分かるように「自分は正しい」完璧だというプライドは、自分を見失い自信がない保守的なこだわりであって、自分の心の真実に気が付けば手放せるんじゃないか、と私に教えてくれた作品だった。

そしてそれには、自分の課題と決断に向き合う勇気が必要だということも。


人を信じるのは、とても難しいかもしれない。
でも1番信じられていないのは自分自身で、自分が分からなくて不安だからプライドに固執し、視野が狭くなり一層こだわりが強くなっていく。

他人に期待するだけでは何も変わらないし、自分が自分を信じられないと結局誰も信じられない。

自分のプライドを傷つけない人や他者からの全肯定を期待するのではなく、ベルのように厳しさも優しさも備えるには、プライドや偏見を捨て、自分の心を深く理解しないと始まらないだろう。
それが自分の正しさへの固執を徐々に解していく気もする。

「自分は正しい」とか「自分は完璧」とか、足枷で縛りつけているのは、体裁や世間体でもなく、自分自身の認識かもしれないね🌱 


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