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「察して」の心理背景


先日、「察してほしい」の欲求の背後にどういう心理が隠れているかをツイートした。


反応は様々だけど、これについてさらに深く掘り下げる必要がありそうだと感じてnoteに綴る事にした。

自分の問題に気付くというより「なぜそこに問題があるか」の自分の背景には触れず、開き直る人もいたことに驚いたからだ。

なぜ他人の問題に口を出すのか疑問に思う人も‥

世の中には色んな人がいる。

自覚と問題意識のなさ、関係性の希薄化。
先行きも現実も自分の事すらよく見えていない。

だから、なぜ問題なのかについて紐解いてみようと思う。



かなり辛口かと思いますから、精神と感情が揺れ、見たくない方はここで終わりにして下さい👋









さて「察して」は何が問題となるか。


•責任回避


『自分が気持ちを話せるのは自分を理解してくれる人。だから他の人には関係ないから、あれこれ他人に言われる筋合いはない』

こういう姿勢の人は多い。


「自分を安心させてくれる人には話せる。」
になるから、
要は自分の正当化を許し、自分の感情に同情や配慮してれる人が欲しい。できない人とは分かり合えないから距離をおきたい💨
だからこんな私を「察して」となる。

他責を繰り返し、自分の正しさが全て、自分本位の本心の反動がここからみて取れる。

「察して」で、察してくれた相手に意思決定の責任を委ねられるから安心だ。

「察してくれる相手がいれば、未来の自分に責任をもたなくて良い」逃げと言い訳が成り立つから。

だから他者を否定しながらも、決して孤独になりたくはないだろう。


「そんなの私の勝手。分かってくれる人がいるから良い」と開き直る。



分かってくれる人とは?
理解、信頼とはなんだろう。

相手は自分を理解してくれている
確信に基づいた心と心の強い結びつきはあるだろうか。

理解を相手に求める前に自分はどうなんだろうと考える必要がある。


•話ができる相手を選ぶ



「問題を解決するつもりがある」と表面的には言う。
それを「わかった上でいわない」は、話す相手をそもそも選んでいるということだ。
自分都合の関係性に閉じこもるのは「自分の正しさ」を正当化する事が目的にあるから。

だから「わかったつもりでいたい人」は、自分の考えに固執する言い訳として「どうせあなたは分かってくれない」と他責に転じる。
こう言うだろうね
「私は他人にこんなに配慮している」と。
だから我慢してるんだと。

しかし「配慮できている」なら他者に遠慮や我慢、不平不満を垂れる必要もないはずだ。
配慮ができてるんだから。
適切な配慮ができるなら心配りができコミュニケーションは得意ではないだろうか?

この点においても表面と心は矛盾だらけだ。


解決方法が 避けるか、感情的にぶつかるか
それが「配慮できていない」事を体現しており、自分の事が分からないなら、他人のことも分かるはずもない

この理屈に気付いてもいない人は多い。


•私は正しい


彼らの前提は
自分=みんな=当たり前

「私は正しい」
「私は空気を読めるんだからあなたも読んで当然」
その心が「察して」という姿勢になる。
「私が正しい」を絶対崩したくないから、指摘をされると「私が何を考えてても良いでしょ」と開き直る。
「こんなに他者に我慢してるのはわたし」
「そういう考えもあるよね(私はそうは思わないけど)」

結局何も認めていない。


何か問題が浮上すると慌てて感情的な火消しが始まる。自分の心の平穏が揺さぶられると困る。

「私が正しい」は「みんなそうに違いない」となり、秩序と調和を乱す警戒心として直観が反応し他者やまわりへの警戒姿勢に意識を向かわせる。


それぞれ違う考え方があると表では言いながら、自分と他者とを分けられない。
己の当たり前と集団秩序配慮へのこだわりは

「相手がいない所で本音を吐き出せば良い」

「口に出さなければ何も問題ない」


それが配慮の形だと考えている??
口に出さずとも「否定的に思いながら反対のことをする」本心とのあべこべの重さを理解していない。

つまり日常は建前で成り立っている都合の良い表向きの仮面の「配慮」を自分に許しているという事だ。


「理解と調和と配慮」
一体それは誰のためのものだろう?




•閉ざされた世界と傲慢


自分視点の一方通行で閉ざされた世界は
個人の理解ではなく、配慮でも価値観の尊重でもない。
自身の感情とエゴに自分が配慮してるだけ。

潜在意識は未来の期待と願望に溺れ、現実を見ていない。


勝手に抱いた他人への大きな期待や願望は他者や社会に何を要求するだろう?
そして配慮できない他者に悲観し、自分の問題を指摘されると傷つけられた、酷い人だと嘆く。


一方的に決めつけた世界で安心したいがために
「自分に合う合わない」を査定する。
その時「自分に都合の良い人間」として他者を評価する己の傲慢さは自覚されない。

ここに問題がある。



他者を見下す人は見下される事を嫌い、見下されるかもと怯える人は常時誰かを見下さずにはいられない。
集団から排除されるかされないか、そんな恐怖もあるだろう。



心の平穏のため常に怯えているから言いたい事が何も言えず、我慢が募り「察して」となっている。責任を取れず問題を避け、いつも他者の反応に怯えているから。


果たしてそれに気付いているだろうか?

この状態がいずれどうなるか、想像してみてください。


責任逃れと他責を繰り返し、孤独になりたくないにも関わらず孤独に追い込んでいるのは自分自身であることを。


•人間関係リセット


恐れている人より愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるのが人間。
だから強い物言いで見下せる「察してくれる」相手を選んで、自分の側に置こうとする。
自分の正当化のために、側にいる優しい人の心を追い込み、「我慢できない!」と相手に切られる前に人間関係リセットさせる事実。
見限られると傷つくから先に離れようとする。

「察し」はいつも自分の危機を知らせるために働くんだろうか?
そしてその理由もやはり他責になっているんだろうか?
INFJのドアスラム、よく書かれているのを目にするけど一方的な他責だなぁと思うものが多い。


MBTIも都合の良い正当化の材料になるだろう。




(私はハンバーガーが欲しい)
ダイエット中にも関わらず、渡されたハンバーガーとコーラを飲みながら「いつかスリムになってモデルになる」と壮大な夢を語る。
期待に叶わないと絶望感に打ちひしがれ
「美味しそうなハンバーガーが目の前にあったんだから、見せびらかした店が悪い」
「家の近くにあったから買ってしまったんだ。環境が悪くて仕方がなかった(自分は悪くない)」
「我慢する私にハンバーガーを渡したあなたが悪い」と責任転嫁で怒り出すか「私はこんなに我慢してたのに」と犠牲者になり泣き出す。


おもちゃやお菓子をねだる子ども。
わーわー泣いて騒いで誰かにどうにかしてもらおうとする。


驚くかもしれないけれど、行動原理はそれと変わらない。


子どもの事をガキとよくいう(餓鬼)

そして我利我利という言葉がある。


他者に悲観する時、自分自身の魂にも同じ言葉を突き刺している。

共感は、相手の関心に対して関心を持つこと。
自分も大切、相手も大切にするのがお互いの尊重。
やるかやられるか、善か悪か、良いか悪いかではない。
善も悪も、どちらもわたしであり、あなた。
どんな時もそれは変わらない。
そして善も悪も同じだと気がつく。


同情したり押しつけたりする人は、相手の関心ではなく自分の関心に関心を持ち、自分の関心を相手の状況に当てはめてしまう。



「かわいそう」の同情の目を他者に向けるのは、自分自身にかわいそうと見下し嘆いているのと同じ事になる。
自分の感情の押し付けであり、他人の感情を押し付けられて苦しむのも自分自身。
誰も「かわいそう」だと思われたく無いし、自分が「かわいそう」だとも思いたくない。

わたしはわたしなのだから。

他責は自分も他人も傷つけ、湧き上がる欲望と我慢が自分の中で延々と戦い、苦しみ続ける事になる。

道を歩むのは自分自身、選択も自分自身に責任がある。
自分の問題と思考のカラクリに気付いていないだけ。


他人や環境のせいばかりではない。

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