『アインシュタインとヒトラーの科学者』
勝利の予感
ナチの宣伝相であるヨーゼフ・ゲッブルスは、指を伸ばした掌をまっすぐ前に突き出してナチ式の敬礼をした。
「階層階級と物質主義に対抗し、民族共同体と理想的な生き方を目指すために!
退廃や道徳の低下に対抗し、家庭と政府の品位と習慣をまもるために!」
巨大な炎の周囲で、暗記しておいた所定の詩句を若者達は朗唱している。
この時、自分達が目指す理想とこれから起こるであろう未来が全く逆方向の道すじであるということに、この集会に集まる人達は知る由もなかっただろう。
まさに朗読した詩句と反対の未来。
階層階級と物質主義に囚われ、道徳の低下を招き、家庭と政府の品位は守られるどころか地に落ち、地獄の道へ歩むことになろうとは。
話が逸れるが、個人的にはヒトラーという人物が、本当にビジョンを見ていたのかどうか‥謎のままだ。
ヒトラーの演説が、民衆の無意識を刺激したのは間違いない事実だが、それは集団の可能性を示すビジョンではなく、何かを「悪者」に白黒決めつける他責でしかなかった。
権力に支配された結果を彼が予測できていなかったのだとしたら、先見性に欠けていると思わざるを得ない。
1933年5月10日、集まった四万人を超える見物人の歓声の中、大学生がベルリン国立歌劇場広場の開けた場所へ行進し、巨大な炎の周囲に整列していた。
ヨーゼフ・ゲッべルズは、群衆の期待で緊張が限界まで張り詰めたのを見計らって、話し始めた。
儀式は25000冊の本を焼き尽くすまでくり返された。カールマルクスのような社会主義者、ヘレン・ケラーのような社会活動家、アーネスト・ヘミングウェイのようなヒューマニストなどその著者は数十人に上る。
主催者はまた、多くのユダヤ人科学者の著書も、目につく限り図書館の書架から取り出してきた。革新的な発見でドイツの科学を世界から崇敬されるレベルに押し上げた人達である。
しかし、新たなナチ政権下で、彼らは軽んじられていた。
この夜の出来事に有頂天になっている人物、フィリップ・レーナルトは、1905年のノーベル物理学賞受賞者にして、ハイデルベルク大学物理学研究所所長、アドルフ・ヒトラーの有力な科学アドバイザーでもあった。
科学者としての人物像、レーナルトとヒトラーとの関係、アインシュタインとの対立背景、さらにはアインシュタインの生涯を、当時の科学者達の関係性や背景を綴られた本『アインシュタインとヒトラーの科学者』を私の感想を交えながらまとめてみたいと思う。
この本はとても面白かった。
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レーナルトにとってのアインシュタインとヒトラーの存在
『フィリップ・レーナルトは、政治を利用した抜け目のない日和見主義者で国家社会主義に賭けていた。時代がヒトラーを求める前からアドルフ・ヒトラーに忠誠を誓う狂信者だった。』と記されている。
彼は、ナチ党が優勢になることが明確になる前から入党し、1927年の党大会ではVIP待遇を受けている。
レーナルトとアインシュタインの対立は、実験科学と理論科学との対立であり、エーテルの存在を巡った対立、アーリア人とユダヤ人との対立であった。
しかしそれは表向きで、レーナルトの攻撃はいつの間にかアインシュタイン個人に向けられる。
根本的には、この対立はレーナルトのナルシシズムが問題として挙げられている。
敵意の底にあるのは極めて個人的な問題であった。
学者としての意見の違い、アインシュタインが世間から崇拝されることに対する強い妬み、敵意に満ちた反ユダヤ主義に駆られて、レーナルトは容赦なくアインシュタインを攻撃し、相対性理論を公然と誹謗するようになっていく。
無意識に対する未知への恐怖が、強烈な嫉妬心を掻き立て、アインシュタインという神秘的な存在を「自分の全てを否定する悪魔」だと位置付けていたことが対立の言動からわかる。
レーナルトの生涯は不和の連続だった。
他の科学者の名声に対する妬みや、「あのときああしていたら‥」といった強迫観念から、レーナルトは自分自身もしくは実際にほとんど通用しないイデオロギーの先祖、すなわちアーリア人の優越を主張する事になる。
彼は、自らの科学を傷つけ、個人的偏見のために科学者仲間からの評判も悪化した。
レーナルトにとって、アインシュタインはドイツの研究者につきまとうはるかに大きな問題の存在だった。
この苛立ちから、レーナルトは四巻からなる著書『ドイツ物理学』のなかで、「ユダヤ人の科学」の品位について詳細を述べることになる。
「悪は排除しなければならない」レーナルトの正義はヒトラーの推進する思想に上手く合致し、アーリア人の品位のために血を守る必要があると考えていた。
これはハリーポッターにも出てくる「純血思想」によく似ているね。
レーナルトの正義は、ナチの権力に呼応し、徹底的に悪を排除する事で平穏と平和を取り戻せると信じていたことにあり、自分達の立場を脅かすものへの警告だった。
アインシュタインを悪者扱いしたことで、ヒトラー政策推進において自分がいかに頼りになる人物であるかを世の中に証明しようと働きかける。
自分の存在意義を知らしめるために、科学者達と対立し、利害が一致した人間との扇動活動を激化させていった。
アーリア人の科学的優位性についてのレーナルトの主張は、「ドイツ物理学」の原理に示されており、ナチの指導者層に受け入れられた。
レーナルトは、約15年間反対派の先頭に立ち、相対性理論を唱えるユダヤ人を生地ドイツから追い出す事に成功した。
アインシュタインのくだらない落書きがその夜ベルリンで、そしてあらゆる場所で燃えたことで、相対性理論というアインシュタインの突飛な考えは、ドイツから永久に忘れ去られると思った。
しかし、実際彼の攻撃はアインシュタインが移住しからも続いており、彼の頭の中は「アーリア人」へのこだわりに晩年も支配されている。
結果的にドイツは、当時最も優れた科学コミュニティを形成していたにも関わらず、自然科学者たちの流出を招き、自国を不利な状況に追い詰めることとなった。そしてそれは、今日の科学にも影響していると言われている。
1930年代初め、アインシュタインは生国でのけもののような気分を味わされていた。
彼は科学者としてだけでなく、平和主義の使者としてドイツを離れ、多くの講演を引き受けるようになり、ヨーロッパでドイツの科学者仲間に囲まれているときには居心地よく感じていた。
アインシュタインは、ユダヤ教を信仰しておらず、自分の民族性を「ユダヤ人の息子」と形容していた。
また「国家主義には染まらない」と自身の立場を明言し、国家主義を「人間に寄生するサナダムシ」と形容している。
ドイツの軍国主義について平和団体に直言するようになり、反動的な批評家はアインシュタインを「非ドイツ人」「国際主義者」呼んで非難し、以下の文言を彼が反ドイツ運動に加担したという口実にした。
1933年4月5日付けのアカデミーへの手紙のなかでアインシュタインは憤慨し、この容疑を否認している。結果的にアカデミーはアインシュタインの名誉を傷つけ、彼はアカデミーから退会しプロセインの市民権を放棄することなった。
彼の名は永久に国家(ライヒ)の敵として刻み込まれることになる。
アインシュタインをベルリンに招いた物理学会の重鎮マックス・プランクが、これを阻止しようとレーナルトに協力を求めた時のやり取りは有名な話のようだ。
懸賞金をかけられ命を狙われる危険にも晒されるようになった。
アインシュタインは、恨みや仕返しの意味で活動していたわけではない。
ヒトラーの人間性や彼が駆り立てるものについてドイツの行く末を決して楽観視してはいなかったし、科学者達の未来や科学の発展が行き着く先を誰よりも案じていたからだ。
アインシュタインがドイツを離れて数年後、権力を掌握するまでのヒトラーの印象について次のように書いている。
アインシュタインとレーナルトの関係
アインシュタインとレーナルトの関係は、当初とても有効的だった。
アインシュタインは、光電効果の研究においてレーナルトの説に従っていた。
1905年にマックス・プランクの量子仮説の視点から同じテーマを取り上げた際、「光が金属に当たった際に生じるエネルギーの性質について、新たな洞察を引き出した」とレーナルトの業績に敬意を込めて言及し、レーナルトの実験を「革新的」と形容していたことからレーナルトはアインシュタインに、好印象を抱くようになっていた。
この数年後、アインシュタインは、主要な学術センターから注目されるようになり、ベルリン大学の無給講師に採用された1年後、チューリッヒ大学の理論物理学の准教授に就任した。
アインシュタインは、レーナルトの助手ヨハン・ヤーコプ・ラウプとの文通からレーナルトに対する見方を少しずつ改め始めた。
若き科学者ラウプは、レーナルトが暴君だという通説があるが自分はそうは思わないとアインシュタインに書き送っていた。
しかし、レーナルトの科学的信念とラウプ自身の信念との間に、緊迫感が漂っていたことがわかる。
この時アインシュタインは、レーナルトの印象をラウプへの手紙でこう語っている。
しかし、最後にそれとなく警告もしていた。
アインシュタインは、レーナルトを尊敬しながらも彼が評価や立場に左右される人物であることをある程度見抜いていた事がわかる。
2人の科学哲学の重要な違いが表面化してきたのは、量子論についてだった。
アインシュタインは、新たな物理法則を展開するためにエネルギー量子の概念を用いた。
この物理法則は、後年彼にノーベル賞をもたらすことになる。
アインシュタインの考え方は、極小粒子にかかわる新たな現象を説明するため古典物理学の制限に見切りをつけようとするものだった。
一方レーナルトは、従来の方法を守り一般的に認められた原理をあてはめ、修正し、展開する方を好んだ。
量子論を巡る意見の違いはあったものの、まだ2人の関係は、心温まるものだったがレーナルトの新物理学への忍耐はやがて限界に達した。
激化する論争
「エーテルの問題」がアインシュタインとレーナルト、両者の間に大きな溝を生むことになる。
レーナルトにとって、宇宙に関する構成概念からエーテルをはずすことはとても考えられなかった。
彼は約200年間幅を効かせてきた考えに強いこだわりをみせた。
理論物理学者たちが、エーテル不要の仮説を示したことにより、エーテル擁護派はなんとしてもエーテルの存在を証明しなければならないと躍起になっていた。
レーナルトは、ラウプにその実験と研究にあたらせており、アインシュタインはラウプとの文通によって、レーナルトとラウプ間の緊張の高まりと、自分が称賛してきた人物の暗黒面に気づく事になる。
レーナルトは、実験結果が思わしくないのはラウプのせいだと責めるようになり、エーテルの存在をラウプが証明できなかった事に苛立っていた。
その頃、アインシュタインは一般相対性理論に関する最初の論文を発表し、特殊相対性理論で述べたような定常状態だけでなく、すべての物理的環境に当てはまるように概念を広げていく。
彼は自分の理論を証明するために実験的に証明しようとしたのだが、アインシュタインのこの動きに批判者たちは攻撃を激化させた。
反対相対性派の科学者エルンスト・ゲールケもその1人で、後にレーナルトと結託することになる。
ゲールケは1902年のパウル・ゲルベルの論文を持ち出し、相対性理論を用いる必要がないと主張した。アインシュタインがゲルベルのアイデアを盗んだと主張したのだ。
同様に、アインシュタインがオーストリアの無名の物理学者フリードリヒ・ハーゼノールの研究を盗用したとレーナルトは主張している。
アインシュタインの先見性と品位を落としめる告発となった。
様々な事情が重なり、ゲルベルの論文を批判する者が現れたため、アインシュタインへの懸念は撤回された。
当時オムニバスの論文集「放射線・電子工学年鑑」の編集者ヨハネス・シュタルクとレーナルトとの手紙のやり取りから、レーナルトがゲールケと結託し根回ししていたのは明らかだった。
アインシュタインがエーテルの存在を信じなかったことを、レーナルトは宗教における道徳的欠陥であるかのように繰り返し指摘している。
彼は大の実験主義者であったが、皮肉なことに広範囲な実験が行われたにも関わらず、アインシュタインの理論による宇宙に、レーナルトの実験では対抗できなかった。
理論物理学に反対する立場から、彼は相対性のいかなる点にも容赦しない強固な姿勢を取るようになった。
1920年、9月19日ドイツ自然科学者・医学者協会の第86回の会議が始まった。
この会議はドイツにおける戦後初の大規模な科学会議だったので、普段より関心を集めていた。
アインシュタインはここで全体討論を提案しており、集まった科学者たちは、レーナルトと彼の支持者がアインシュタインの挑戦に応じることを期待した。
反相対性理論者が口にしてきたいくつかの懸念として次のように挙げられる。
彼らにとってアインシュタインの理論は信憑性に欠けているのだった。
公開討論の場は、またたく間にレーナルトとアインシュタインの一対一の対決になった。
論調は学術的だったが、2人が憎い敵同士で互いに恨みを抱いているのは誰の目にも明らかだった。この討論は科学界で「アインシュタイン論争」と呼ばれる。
結局、アインシュタインの理論の有用性をよりよく理解するために何かを解明したり、未解決の部分をきちんと関連づけたり、一致点を見出したりするということは一切行われなかった。
聴衆が散会すると、アインシュタインはレーナルトと控え室で話そうとしたが、レーナルトは「もう手遅れだ」といって提案を拒否し立ち去ってしまった。この時アインシュタインが、レーナルトに何を伝えようとしていたかは分からない。
この対決後、アインシュタインは二度とあのような反対派のせいで動揺したりしないと決意を新たにした。
レーナルトは、アインシュタイン論争時に自分がどう考えていたかについて回想している。
レーナルトは、出席した科学者の大部分がアインシュタイン側についていると知った時の苦痛と孤独感を抱え、しばらく引きこもった。
この事件に関わる品として、レーナルトは科学技術雑誌の切り抜きを保管していた。
その記事を書いたW・ヴェイル氏の名前のそばにレーナルトは「ユダヤ人」と書き込んでいた。
そして、アインシュタインの意見の誤りを暴く努力を続けようと固く心に誓った。
レーナルトが同僚を仲間に引き入れたことをもっとも明確に物語っているのが、レーナルトが1929年にアインシュタインを痛烈に批判した『アインシュタインに反対する100人の執筆者』だ。
これはアインシュタインの理論に対する否定派たちの考えを集めたもので、題名の100人の執筆者は寄せ集めといってよい。
寄稿者の多くは、高エネルギー物理学の知識が全くない、あるいはほとんどない者たちばかりだった。
批評家アルベルト・フォン・ブラウンはこう述べている。
アインシュタインはもっと簡潔に返答している。
レーナルトの闇
1922年、ライプツィヒで行われた会議で、レーナルトは過去の不満を繰り返した。
この頃、集まる人々の間にあからさまな反ユダヤ主義が広がり、レーナルトが反相対性の小冊子に散りばめた威嚇、アインシュタインの名が懸賞金付きの「暗殺者リスト」に載るようになったことなどから、会議には参加しない方が良いだろうとアインシュタインの仲間は助言していた。
レーナルトは、アインシュタインが立証されていない理論を不当に広めようとするのは品性の貧しさの証拠だと主張し、ドイツ科学者・医学者協会とアインシュタインが共謀していると非難した。
これはレーナルトの心理的投影を示していた。
まさに自己紹介になっているのが分かる。
レーナルトは嘲るような調子で続けた。
ライプニッヒの会議ののち、レーナルトは純粋な科学からはほとんど遠ざかり、反動主義の政治に全力を傾けていった。
彼は反ユダヤ熱をさらに特定の個人へと向けた。
アインシュタインは堕落したユダヤ精神の生きた化身で、ドイツの科学にうまく取り入っているのだ、との被害妄想を加速させた。
ハイデルベルク大学の講演でレーナルトは熱弁を振るった。
レーナルトの願いは、アインシュタインがまるで生まれもしなかったかのように、彼の考え、著作、発言わ完全に葬り去り、白紙状態に戻すことだった。
レーナルトは新たな科学から顔を背け、何世紀も昔の発見を基にした物理的現象の解釈にしがみつき、数学的に導き出された理論を理解することを嫌がった、あるいはできなかった。
レーナルトとアインシュタインが科学的な立場の違いで衝突するのも無理はない。
しかしこの衝突は、探究心にあふれ議論を好んだアインシュタインとニールス・ボーアの関係とは全く異なるものだった。
晩年、アインシュタインは親友ニールス・ボーアにこう書き送っている。
このように述べることができたのは、2人が30年にわたり、素粒子物理学を支配する法則について友好的に論争してきた証である。
時折、議論があまりにも白熱したために、周囲の状況がまったく目に入らなくなることもあった。
有名な話だが、あるとき彼らは会議に向かう途中、会話に夢中になりすぎて市街電車の駅を乗り越してしまった。やがて行き過ぎてしまったことに気がついたふたりは、電車から降り、通りを渡って逆向きの電車に乗った。
そしてまた降りるのを忘れ、乗り越したという。
細かい点では一致しなかったものの、ボーアとアインシュタインはともに、理論物理学の領域だった。
レーナルトとアインシュタインが抱いていた感情は、尊敬の念に満ちた理解とは対極にあった。
歩みののろい保守的な物理学界で、アインシュタインはニュートンやコペルニクスやケプラーにたとえられた流星だった。レーナルトが科学の神として畏敬してきた名前である。
ウィットに飛んだボサボサ頭の思慮深げな理論家は大衆から敬愛されたが、レーナルトは学会というきわめて限られた世界の外では、ほとんど知られていなかった。
科学者がそのような喝采を受けるのは見苦しい、というのがレーナルトの考えである。
アインシュタインの理論にどんな根拠があるというのだ?
数学的に導き出されたものにすぎず、抽象的な理論から始まって、実験証明という基準も満たしていないではないか。
あっけないほど従順で騙されやすい報道陣がアインシュタインの自己宣伝を歓迎し、共謀してるのではないか?
レーナルトはアインシュタインについて
「いかにもユダヤ人らしい典型だ。」と書いている。いかにもユダヤ人らしい考え方が、彼が悪であることを何よりも証明していると。
彼の相対性理論は、物理学全体を変え、支配しようとした。‥それがけっして真実を目指すものではないのは明らかだ。
レーナルトは、アインシュタインが特権的な生活を送っているのは不当だと感じていた。
アインシュタインが成功している一方で、自分のような成功に値する真のアーリア人はひどく苦しんでいる。
そのうえ、アインシュタインは名声のおかげで裕福になっている。
1921年、レーナルト自身の発見から派生した、学童にでもできるような平凡な業績に対してアインシュタインにノーベル賞を授与している。
レーナルトの息子は腎機能障害を患い、戦時の物不足で亡くなったが、アインシュタインの2人の息子は、ノーベル賞賞金のおかげで快適な生活を送っているという。
レーナルトはアインシュタインと比較してはよく憤っていた。
レーナルトは、ワイン商の息子である。
彼は子どもの時から自然科学以外の学問を深く軽蔑しており、長じるにつれ、偏見はますます強まった。レーナルトは研究者となるべく、ヨーロッパの一流の研究所でブンゼンやヘルムホルツやヘルツといった1880年代と90年代のもっとも偉大な科学者に師事した。
レーナルトは熱心な実験主義者だった。
高エネルギーの陰極線管の放射に関する研究で1905年にノーベル物理学賞を受賞し、最終的にハイデルベルク大学の教授に任命されている。
しかし同時に、その生い立ち、伝統的な教育、型どおりの人生経験によって、レーナルトは特権意識、つまり他者に対し挑戦的ともいえる振る舞いをしても「自分が正しい」という意識を抱くようになった。
レーナルトの華々しく多様な学歴とは対照的に、アインシュタインはスイスのチューリッヒ工科大学にしか通っていない。
ほとんど無名で、さほど専門的な教育を受けたわけでもないスイスの特許事務員が、4本の重要な論文を発表したのだ。
光電効果、ブラウン運動、質量とエネルギーの等価、そして特殊相対性理論についての革命的な論文である。数学的に導き出された彼の洞察は、激流のように生まれ出た。
2人は性格も正反対だった。
レーナルトは短気で厳しく、他者に対して支配的で、特に部下には不快な態度をとった。
レーナルトの特別意識は、アインシュタインとの衝突以前から他の科学者達とも衝突の種になっていた。
彼はマリー・キュリーやJ・J・トムソンと功績について口論になった。
「自分の功績があったからトムソンは電子がどのようなものかを述べることができた」と主張していた。
また、レーナルトはX線を発見したレントゲンに対しても同じような主張をしていた。
これは1945年、米軍医療予備隊所属のアメリカ人医師ルイス・E・エッターが、長年にわたるレーナルトとレントゲンの論争の本質に気づき、面談を申し込んだ時のやり取りだ。
レントゲンは1923年に亡くなった際、レントゲンは遺書の中で書類の破棄を命じる一方で、レーナルトとの書簡はヴェルツブルク大学に保管することを求めていた。
おそらくX線の歴史的起源についてレーナルトが権利を主張するのではないかと懸念してのことだろう。研究所の重鎮はすぐに写真を複製し、共感してくれる科学者達に保管を依頼した。
レーナルトは政治的立場を強めると、X線の発見について益々主張するようになったからである。
現に第三帝国の科学機関は、1895年のできごとに関する歴史を改ざんしようとした。
この答えにエッターは茫然とした。
そして、レーナルトがレントゲンを恨んでいる1番の原因が何かを理解した。
レーナルトは発見で出し抜かれたことではなく、レントゲンが栄光を分かち合おうと誘わなかったことに侮辱を感じていたのだ。
レントゲンの功績を過小評価させようという、レーナルトの長きにわたる聖戦の動機はこれがすべてであったのだろうか。
エッターはレントゲンに対する認識に反ユダヤの要素も含まれているのではないかと考えた。
そこで、すばり尋ねた。
「レントゲンはユダヤ人だったんですか?」
レーナルトは答えた。
エッターは、もう話すことは何もなかった。
ヒトラーと狂信者
レーナルトの演説や著述を温かく受け入れ、彼の反動的な哲学を駆り立てる存在がいた。
アドルフ・ヒトラーが、第三帝国総統に上りつめたことでレーナルトは政府のもっとも強い権力を持つ場への出入りを許されるようになった。
レーナルトは、ヒトラーの権力掌握以前に党に参加した「古参兵」だとナチは認識しており、ナチの指導者たちとも親しくなった。
ヒトラーはレーナルトに何通かの非常に丁重な私信を送り、レーナルトに党の活動参加を求めている。1926年に書いた手紙。
ヒトラーはレーナルトに、非常に望ましい資質をいくつか見出していた。
ノーベル賞受賞した科学者レーナルトの存在は党イメージを向上させ、もっと穏健なドイツ人を転向させる役に立つと考えていた。
そして、アインシュタインとの確執から、レーナルトが狂信者であることを見抜いていた。
彼らはふたりとも、ドイツ文化へのユダヤ人の侵入について真剣に考えていた。
ユダヤ人であるアインシュタインは、しだいに怒りを強め外国人嫌いになっていくドイツの有権者の間でナチへの人気を高めるのに打ってつけのスケープゴートだったのだ。
ヒトラーは1920年党首に就任し、組織名を「国家社会主義ドイツ労働者党」に改めた。
1929年に世界的な恐慌から失業が広がるとナチは窮境な原因を共産主義者、社会主義者、ユダヤ人に転嫁し、大衆に広く受け入れられるようになっていた。
1933年、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクからヴァイマル共和国の首相に任命され、同三月、右派連合が提案した授権法を投票で否決するように国会に嘆願した。
実際、授権法が成立すれば、首相であるヒトラーとその内閣は、国会の承認や年老いた大統領の干渉を受けずに法令を通過させる絶対的で独裁的な権力を得ると彼は確信していた。
選挙が始まるとヒトラーは突撃隊を街頭に放ってライバル政党の活動を暴力で邪魔させた。
短い選挙運動は史上もっとも荒っぽい運動のひとつになる。
労働者の支持する共産党員と比較的率直な発言をする社会民主党員の多くは逮捕され、新設されたダッハウの強制収容所で恐ろしいもてなしを受けることを運命付けられた。
これがナチの反対者を黙らせるために作られた多くの施設の始まりとなる。
491対94票で授権法は成立し、国会は権限を放棄し解散することとなった。
翌年ヒンデンブルクが亡くなると、ヒトラーは敵とみなす者、主としてユダヤ人と共産主義者を排除することによって勝利を堅個にする明確な道が開けた。
レーナルトと同様にシュタルクが「危機」と考えるものの中心にもユダヤ人がいた。
レーナルトとシュタルクが熱心な共犯者であることを、シュタルク教え子である野心的で打算的なメンツェルは証明している。
ユダヤ人からアーリア人科学者への移行を目指し、アーリア人の科学者という奇妙な世界ではさしたる才能もない人々が、理論物理学の数学的複雑さや明敏なユダヤ人理論家から質問責めに直面する必要もなく、成功を収めることができた。
ここにも心理的投影が見られる。
自分が理解できない、想像できないものに対する未知への恐怖心。無能の烙印を自分に押し付けられる恐怖だ。
「立体派がきちんと絵を描くことができないよえなものだ」
理論家達が頭の中で描いた絵(イメージ)のやり取りを、彼は自分の目の前に形(実験)にして根拠を示さないと信用できないと主張した。
彼自身、頭の中で立体絵を描きイメージで理解できなかったのではないか。
互いのイメージを交換し合う理論家に対する屈辱的な憤りが、アインシュタイン=ユダヤ人=理論家に向けられたようにも思う。
アインシュタインが亡命すると、レーナルトは国民啓蒙・宣伝大臣であるヨーゼフ・ゲッペルスに手紙を書き、アインシュタインと相対性理論にかかわるすべてを強制的に撤廃し、さらにはユダヤ人であれ、非ユダヤ人であれ、アインシュタインの支持者すべてを学術的ポストから外すように求めた。
さもなければ政治的に危険な事態に陥るだろう、と彼は主張している。
追い出された科学者たちの運命
ヒトラーが首相に任命された直後、レーナルトとシュタルクはナチ・エリートに自分たちの考えを熱心に伝えようとした。
ふたりにとって最大の問題は、ユダヤ人がドイツの大学で優勢に立ち、長年にわたり仲間が教授職に就くのを促してきたことだった。
「計算と誤魔化しによって、仲間のユダヤ人が巧みに協力し、ユダヤ人の物理学の構築が可能になった」とレーナルトは問題視していた。
1934年春、シュタルクはドイツ研究協会会長に任命された。元会長の免職を命じたのはヒトラー自身である。「総統が望んだから」という理由でシュタルクは就任した。
レーナルトはこの知らせを受け喜んだ。ヒトラーとのパイプがあるレーナルトは「実力者」となって、どの教授が雇うのに相応しいか、どこに配属すべきかを決めることができたのだ。
シュタルクは手始めに理論物理学への研究費をすべて停止し「アーリア人的」テーマの実験的研究であっても資金提供を制限した。
資金提供のための推薦を「シュタルク会長がダメだと言っているから」と頻繁に取り消した。
理由の説明はなかったという。
数年「ドイツ物理学」は幅をきかせ、レーナルトとシュタルクは波に乗った。
1933年、ドイツの多くの優秀な物理学者、科学者、数学者の解雇に繋がることに危機感を感じたカイザー・ヴィルヘルム協会の会長マックス・プランクはヒトラーに話す機会を求めた。
ドイツ科学の進歩を取り返しがつかないほど遅らせることになる。この会談はプランクにとって、ヒトラーに理を説く唯一のチャンスだった。
ヒトラーに理解を示してもらうために、彼はユダヤ人の同僚フリッツ・ハーバーを例に挙げることにした。
このノーベル賞受賞者は新法に抗議して最近大学を辞職していた。ハーバーは大戦中に毒ガスの製法を発明し国民的英雄になっていた。
ヒトラーはプランクの忠告を無視した。
気まずい沈黙の後にヒトラーは言った。
自分の頑強さを証明するかのように、彼は膝に拳を打ちつけ始めた。
極めて早口になり、興奮状態に陥った。
プランクは黙って退出するほか選択の余地はなかった。
1933年の職業官吏再建法は、ユダヤ人の公的生活への参加、特に大学や医療や法律といった目立つ分野への参加を禁じた。
1935年ニュルンベルク諸法は、誰がユダヤ人とみなされるかを定義し、アーリア人とユダヤ人の性交渉を禁じ、ユダヤ人の大学入学者数を割当制にし、すでに学位論文を書き上げた者を除きユダヤ人学生への博士号授与を禁止した。
さらに、1938年ユダヤ人と非ユダヤ人のあいだの職業的・金銭的相互関係を禁じることによってドイツ・ユダヤ人の孤立を完成させた。
プランクが引き合いに出した毒ガス発明者の英雄、フリッツ・ハーバーは教授職を辞職した後、イスラエルの研究所に向かう途中体調を崩し心臓疾患で亡くなっている。
ハーバーの一族の多くがドイツの強制収容所で命をおとすことになった。
妻と息子はアメリカへの移住に成功したが、父がツィクロンBの開発にあたったことを恥じて自殺しており、これはナチがホロコーストで数百万のユダヤ人を殺害するのに使用した毒ガスである。
科学者たちはもっと大きな動きのなかの一部だった。
1933年から35年にかけて、職業官吏再建法の施行により、6万5千人のユダヤ人がドイツを離れている。出国の第一派のあとドイツにまだ居住していた56万2千人のユダヤ人のうち、さらに30万人が人種差別のために移住した。
とどまった者達の運命は、ヨーロッパ全域に広がったドイツ軍による恐怖を反映している。
強制収容所で亡くなったドイツ・ユダヤ人は22万7千人。戦後ドイツに残っていたユダヤ人は、わずが2万5千人にすぎない。
ドイツの科学者たちの移住は、簡単にはいかなかった。
安全を提供してくれるであろう国々のほぼすべてが、ユダヤ人の移住を制限する政策をとっていたからである。
それに応えて、追放されたドイツ科学者に経済的、法的、行政的支援を提供する組織が数多く生まれた。
1933年、ロンドンで創設された学術者支援評議会は、一時的にも仕事を見つける支援をしている。
ドイツの解剖学者フィリップ・シュヴァルツは、スイスを拠点にしたドイツ研究者救難互助会を創設した。
危急の自体に尽力してくれる組織で、最終的にドイツとオーストリアで解雇された大学教師2千人をおもにイギリスとアメリカに移住させた。
アインシュタインは、学術者支援評議会の資金集めを助けるために講演会を開いた。
またハイム・ヴァイツマンとともにエルサレムに大学(現在のヘブライ大学)を建設するための模索を続けており、可能性のありそうな学者をパレスチナに移住されていた。
アインシュタインの評判をもってしても、解雇されたドイツ人学者が多すぎて要求に対処することは難しかった。
立ち往生したユダヤ人科学者のために何枚も供述書を書いたが、1930年代終わりには、彼の署名は使い過ぎでその影響力をほとんど失っていたという。
アインシュタインは、当時の混乱を回想しマックス・ボルンへの手紙でこのように語っている。
アインシュタインが予期した未来
1939年夏、アインシュタインは、ロングアイランドの最北端にあるペコニックのコテージにふたりの旧友を迎えた。
ウィグナーとシラードは、ドイツ物理学者がウラニウム原子の分裂に成功したという知らせを受けていた。
1905年に質量とエネルギーの等価性の研究 (つまりE=mc²)で予測したように、その反応で膨大なエネルギーを放出することを示した。
ドイツの原子爆弾製造を指揮しているのは、ヴェルナー・ハイゼンベルクだという。時間がない。
ウラニウムの豊富なベルギー領コンゴにドイツを近づけないようにしなければならなかった。
ドイツの核兵器開発に脅威を感じたアインシュタインは、ローズヴェルト大統領に危機の重大さを知らせる必要があった。
アメリカで確認されているウラン埋蔵量がごくわずかであること、この新たな脅威を兵器化する作業がドイツ科学者によって進むことを考えた。
アインシュタインは、こういった人々が政府機関に情報を与え、ウラニウムの可用性への注意を促進し、さらには核分裂研究を加速させるために大学や研究機関への財政支援を強化すると予見した。
ローズヴェルト大統領は最終的に警告を重く受け止めて、委員会を立ち上げた。
アインシュタインも参加を招かれたが辞退している。FBI長官エドガー・フーヴァーはアインシュタインを「極端な過激派」だと主張している。
フーヴァーの判断が、事実上アインシュタインのマンハッタン計画への参加を阻止したことになる。
アインシュタインは、核分裂兵器に関する研究を推奨したが、核兵器を戦争抑止力、あるいは最悪でも防御的に使用されるだけの兵器と考えていた。
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マックス・ボルンと妻のヘディはアインシュタインの親友で、1916年以来定期的に文通していた。夫妻はドイツを離れることを望まなかったが、アインシュタインとの関係と、討論の際ボルンがアインシュタインを支援したことを恨んでいたため、ゲッティンゲン大学を辞職しドイツを離れるしか選択の余地はなかった。
ハイゼンベルクはボルンを励ましていたが、レーナルトとシュタルクの悪意に苦しめられた。
ボルンは理論派の立場から、理論と観察の関係をきちんと整えようと尽力した。
1954年ボルンは量子学における初期の功績、特に波動関数の数式を評価され、ノーベル賞を受賞している。
受賞講演で彼は実験物理学と理論物理学間での対立に目を向けている。
ひとつの真実を信じるのではなく、真実を語ろうとすれば可能性を示さなくてはならない。
真実をひとつだと願えば途端に可能性ではなくなる。「それしかないと信じる」決めつけるのは自ら可能性を閉じてしまうのと同じだと私は思う。
全ての可能性を吟味した上でのひとつの答えを出していく。その積み重ねが経験となり思考の積み重になっていくだろう。真実に近づくというのはそういうことだ。
ボルンのゲッティンゲン大学での教え子の中に戦時の科学者として活躍した者もいた。
アメリカに移住しマンハッタン計画に参加したなかに、ロバート・オッペンハイマー、エンリコ・フェルミ、エドワード・テラー、ユージン・ウィグナーがいる。
彼の優秀な助手だったヴェルナー・ハイゼンベルクは、ドイツ第三帝国の核兵器開発を率いた。
後に原爆の父オッペンハイマーや水爆の父エドワード・テラーの運命ともに、アインシュタインが描いた未来は、想定より悲劇的な形に変えた。
彼は、広島と長崎で生じた壊滅的な人命の喪失に衝撃を受けた。
同様に悩んでいたシラードの後押しを受けて、アインシュタインは原子力科学者緊急委員会という新たな組織の議長に就任し、核兵器の管理に献身し、連合した世界政府という不可能と思われるような構想に対しても貢献した。
最後に
この本は、映画「オッペンハイマー」の序章のようで私は夢中で読んだ。
ナチスの核兵器開発に危機感を感じていたアインシュタインとオッペンハイマーは同じ理論物理学者だった。
オッペンハイマーはアインシュタインに、頭の中のイメージをもとに構想を語るシーンがある。
理論家達はイメージを頭の中に起こしながら活発に議論し合っていただろうし、共有し合える宇宙理論を頭の中に持ち合わせていたんだろう。
それを考えただけで私は興奮したし、話をしてみたかったなぁと夢見てしまった。
アインシュタインは、この時オッペンハイマーに助言をしなかった。
私は、アインシュタインがマンハッタン計画に協力的なのか非協力的なのか‥彼の複雑な心中や立場を推しはかれなかったが、この本を読んで、彼は自分の理論に対して責任を持ち理論物理学者として平和を愛し行動していたこと、ドイツの行く末さらには世界の行く末を案じていたこと、平和を貫いていたことを理解した。
危険がありながらも追放されたドイツ科学者の移住のために尽力し、ドイツの原子爆弾製造の危機に動いていた。
アインシュタインは、オッペンハイマーに未来の役割とこれからの道すじを託していたんだろうと思えた。
彼の理論が存在する以上、いずれ誰かが作り出すであろう新兵器。
いつ誰が、どこの国が作るのか時間の問題だった。
「ドイツよりも先に作らなければならなかった」
これが彼らのプロジェクトを動かした。
核兵器を管理するために連合した世界政府。
オッペンハイマーも自分が製造の役割を担うことでこの巨大な力の使い方を管理できるのではないかと遠い未来を見越していた。
広島に最初の原爆を投下する前、物理学者達は陸軍省に、無防備な女性や子どもに使わないように要請していたという。
アインシュタインはじめ、物理学者達は自身のその責任を痛いほど感じていたし信念もあった。
例外として、水爆の父エドワード・テラーは保守的な「タカ派」で、共産主義者の脅威に対応するには、進んだ兵器を開発し続けるのが1番だと考えており、科学者仲間から警戒心を持たれていたという。
1954年のマッカーシーによる聴聞会で、ロバート・オッペンハイマーに不利な証言をして同僚の怒りを買っており、オッペンハイマーはこれを受け公職追放になっている。
エンリコ・フェルミはテラーについて、
「異常な熱意を持った人々のなかで無類の偏執強者だ」と述べており気癖、大言壮語のせいで、マッド・サイエンティストのように扱われ、政治家や軍人との関係にのめり込んでいったという。
人間同士、国同士の利権が、純粋に理論を愛し探究心のある科学者達の運命をも握っていた。
権力と政治的優位性が人類にとってそれほど大事なものだろうか。
📚&🎬
『アインシュタインとヒトラーの科学者』
The Man Who Stalked Einstein
ブルース・J・ヒルマン
ビルギッド・エルトル=ヴァグナー
ベルント・C・ヴァグナー
大山晶訳
『アインシュタインと原爆』
2024年 監督アンソニー・フィリップ
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