母と歌えば2024⑳
「雨降ると良いな。」
発声練習の途中で、母が唐突に言った。
「あなたに傘をあげたいの。」
へ?母は二十年以上前に五本買った傘が、まだ二本ある、と言い出した。
「パパが事務所開いた時、来た人が傘持ってなかったら貸してあげる用に傘を五本買ってこいって言ったの。でも、女の人の傘だし、誰も借りて行く人がいなくて。」
母は見覚えのある二本の傘を私に見せた。それは良いけど、今、レッスン中だよ。
「ごめんなさい。思い出した時言わないと、忘れちゃうのよ。」
うん、それはまぁ、わかる。
そう言っているうちに、玄関のチャイムが鳴った。生協の配達だ。
「お米がないわねー。頼んだのに。」
「抽選なんですよ。」
え?抽選?
今は、どこの店に行ってもお米がない。母は先週も生協にお米を注文したそうだが、配達された荷物にはお米は入っていなかった。
「抽選なんですよー。注文書に書いてあるんで、見てください。」
へーえ。抽選で当たらないと買えないんだ。生協のお米は完全に欠品ではないけど、注文した人が全員買えるほどはないんだね。
うちにはほぼお米がない。先週母から三カップもらっていったのを残してあるが、昨日の夕食はスパゲッティミートソース。一昨日は夫に鶏手羽肉を、焼いてもらい、フランスパンと一緒に食べた。その前の日は、焼きうどん。
「九月になれば新米が出回る。」
テレビで大臣が言ってたから、もう少しの辛抱なんだと思うけど。
「ごめんねー。お米来なかったから、今日はあげられないー。」
いいの、いいの。今はしょうがない。
二度目の中断で、レッスンはおしまいになってしまった。それも、まぁ、しょうがないかな?母は昼ごはんの準備を始めた。
「このゴーヤの炒め物、カレー粉を入れるはずだったんだけど、カレー粉見たら、賞味期限切れでー。」
カレー粉なんて、賞味期限切れても別に大丈夫じゃないの?でも、その炒め物は別に悪い味ではなかった。
「梨とりんご、どっちが良い?」
梨のほうがいいかな?
母が剥いてくれた梨はとても、みずみずしくて美味しかった。
しばらくして、母はコーヒーを淹れてくれた。
「あー、やだ!失敗!」
コーヒーポットの蓋をしたまま、フィルターとコーヒー豆を入れたドリッパーを上に置き、お湯を注ぎ始めてしまったのだ。
「穴は空いてるんだから、しばらく待ってから、蓋を外せば大丈夫じゃない?」
と私がいうと、母は少し待ってから、ドリッパーをコーヒーカップの上に置き、ポットの蓋を外した。
「もう嫌になっちゃう!三回に一回くらいは、これ、やっちゃうのよ。」
人間ってそういうものだよね。同じ失敗を何度もする。私だって、何度、お風呂の栓をしないでお湯を溜め始めたことか。
「お風呂の栓を確かめてください」
って、音声が流れるのに。
テレビで松田聖子の「青い珊瑚礁」が今、韓国で大人気だという情報が流れた。「そう言えば、今日は何も歌わなかったね。歌のしりとりをしよう。」
私は童謡を一節歌った。母は少し嫌がったが、その最後の文字で始まる歌を歌った。
「♪はーるがきた、はーるがきた、どこにきたー」
「🎵たんたんたぬきの…あら、ダメね。」
いいよ、そこまでで。じゃあ、「き」で始めようか。
何回めかに「ら」で始まる曲になった時、母は
「♪ラジオ体操、1、2、3」
と歌い始めた。どこかで聞いたことのあるメロディだけど、みんなが知ってるラジオ体操の歌ではない。
「何?その歌。そんなのあるの?」
私はスマホでシャザムを開いて、母に「もう一度歌って。」
と頼んだ。母はまた別の歌詞で歌った。シャザムはちゃんと反応した。
「あー、お山の杉の子!」
YouTubeで開いて、一緒に歌ってみた。母はスマホから流れる音はよく聞こえないらしいが、スマホの画面に歌詞の文字が出るし、私が一緒に歌ってあげれば、大丈夫。
ずいぶん長い歌だった。作詞はサトーハチローさん。禿山に小さな杉の木が生えて立派になるまでのお話に、戦争中の戦意高揚やラジオ体操まで含まれているのだから、長くなるよねー。いい練習になった。
「あなた、まだ帰らなくていいの?」
四時半のバスで帰ろうかな?
最寄駅からこの団地を一周して、また同じ駅に戻るバスが、1時間に一本だけある。そして、そのバスは、団地の六階にある実家の棟のほぼ真下に止まる。母はいつも、何かいるものはないか?と聞いてくれるので、
「きゅうりをちょうだい。」
と言ったら、きゅうりは一本しかないからダメと言った。
「りんごと玉ねぎをあげる。」
と言って、袋を包丁で開けようとした時、母は左手の人差し指を切ってしまった。真っ赤な血がテーブルの上についた。「わー、大変!」
母は元看護師だから、自分で止血をし、ちょうど良い絆創膏を見つけて貼った。
「気にしないで帰っていいわよ。」
そんなわけにいかないよ。私はとりあえず、シンクに溜まっていた食器を洗い始めた。すると母は
「これもあるから、大丈夫。」
と、ビニール手袋を私に見せた。それはそうだけどねー。
「もう、本当に!ビニール袋開けるのに、包丁なんて使わないでね!」
母は素直に「はい。」と言ったが、
「どうしてあんなこと、やっちゃったのかしらねー?普段はやらないのにねー。」
とも言った。そういうものだよねー。
私は五時半のバスまで待とうかと思ったが、気丈な母がもう帰って大丈夫だというので、別のバス停まで歩いて、五時頃帰ることにした。
母の怪我、すぐに治りますように。
来週はお米が当たりますように。
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