サワダくん
ねえ、あの人、さっきからこっち見て笑ってくるんですよ。ムカつきません?私たち、なんか変ですかね。変じゃないですよね?ムカつくなあまじで。なんなんすかあの人。あの人の方がよっぽど変ですよ、だってほら、あのキャップ。真っ赤っかで、全然服と合ってない。イヤホンも有線だし、今どき。普通、今有線のイヤホン使いますか?使わないですよ、邪魔ですし。
私、時間ないのに、なんでこんなことに気を揉まないといけないんですか。ねえ、そう思いません?私の自由な時間って、あと一週間ちょっとしかないんですよ。それが終わったら、またあの生活に戻らないといけないのに。憂鬱だなあほんとに。
あ、ほら、今見ました?また笑ってましたよ。気持ち悪い。先輩、ちょっと言ってきてくださいよ。ニタニタすんな、って。こっち見てくんな、って。だって、さすがに不愉快じゃないですか。ちょっと、なんとか言ってくださいよ。
こんなことで嫌な気分になりたくないんですよ。ハッピーでいたいんですよ私は。
先輩は、いつ戻るんです?まだお休みですよね?私より早くに戻るんだったら、おんなじタイミングで戻ろうかなあ。ね、いつまでお休みですか?まさか、もう戻らないとか言いませんよね?やめてくださいよ〜?
あー戻るの嫌だなあ。
あ、聞いてくださいよ、休み入る直前、まだ向こういたときなんですけどね、私、自分の母親のこと、ずっと「サワダくん」って呼んでたんですよ。ことあるごとに、母親の顔覗き込んでは、「ねえ、サワダくんはどう思う?」「サワダくんはどっち行きたい?」「楽しい?サワダくん」って、私が話しかけるんですよ。意味わかんないですよね。なんかでもその日、いっちょまえに天気は良くて、空の色とかまでは分かんなかったですけど、空気が程よくしっとりしてて、ずっとあったかかったんです。嫌になっちゃいますよ。
ねえ、サワダくん…じゃなかった、先輩は、向こうでなんか嫌なこと、ありました?私が全部聞いてあげますよ。私と先輩の仲じゃないですか、遠慮しないでください。
…ちょっと、何かは言ってくださいよ、さみしいじゃないですか。
じゃあ、私のターンですよ。無言はパスってことで。
これは結構前なんですけど、夜、線路沿いを友達と歩いてたんですよ。もう小学校以来会ってなかった人なんですけど。でもね、不思議と普通に話せちゃうんですよ。お互い近況報告とか全くしなくて、それが長年の空白が無かったことになっていく感じがあって、幸せでした。でも、歩いてくうちにだんだん冷たくなってくるんですよ。いや、態度とかじゃなくて、なんていうか、質感が、というか、顔とか腕とか足とか、どんどん無機質に感じてきて、夜だったのもあって、ちょっと不安になってきて、最初の幸せな気持ちが完全に塗り替えられちゃって、そしたら、目の前に陸橋が現れたんですよ。すごく寒そうにしてて、でもこれにですね、先輩、登らないといけないんですよ。分かるでしょ?私たちは、これに登らないといけなかったんです。そこからは覚えてません。でもね、登った後、完全に別の世界になってしまいました。冷たくなった世界の形で、固定されてしまったんですね。もう引き返しても、あの世界には戻れません。いや、試してはないですけど、多分戻れなかったです。分かるでしょ?分かりますよね?あのとき、私には、もう元に戻らないっていう確信があったんです。そういうのって、私そのものとは無関係に、分かってしまうものなんですよ。揺るがない「情報」だけが、私と全く無関係なところで発生して、そのまま私に入ってくるんです。私ね、先輩、向こうで、たとえどこで、どんな寝方で寝たとしても、目が覚めると必ず最初に自分の部屋の天井が見えたんですよ。必ずですよ?変ですよねほんとに。そのときに、否が応でも昔見つけた、なんか不安になる天井の模様が目に入ってくるんです。あのときも、そんな感じで、ただ「情報」だけが頭の中に入ってきたんです。そういうものなんですよ、向こうの世界って。分かるでしょ?
先輩、聞いてます?
…サワダくん?
違いますよね、先輩です。
先輩ですよね?
ああ、結局私は、向こうの世界から戻っては来れないんですかね。
ねえ、サワダくん?
あ、もしかしてお母さん?そうだよね、サワダくんって、だって私が勝手に呼んでるだけだし…。
…ねえ、ちょっとは否定してくださいよ!冗談じゃないですか!サワダくんなわけないだろ、って!誰だよサワダくんて、って!お母さんが一番ないだろ、って!
先輩、ほんとに喋んなくなりましたよねえ、さみしいですよ、私。
先輩、私あと、一週間ちょっとで、戻らないといけないんですよ。先輩、あとどのくらい休みあるんですか?
…先輩は、早く戻りたいですか?
私は、もう戻りたくないです。やっぱり、こういうことじゃないんですよ。分かるでしょ、先輩、ほらあの人、まだこっち見てますよ。気持ち悪い。
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