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桜田門をくぐって②(二·二六事件)


(上の記事のつづきです)

桜田門といえば、警視庁の隠語にもなっています。泣く子も黙る警視庁ですね。

警視庁がいまの場所に置かれ、首都の治安に睨みをきかせるようになったあと、昭和に入り2度も襲撃を受けているそうです。

1932年の五·一五事件と、1936年の二·二六事件です。(以下226事件とします)

226事件では、叛乱軍(以下反乱軍)に占拠されてしまいます。

山川の図録で、反乱軍の動きが一目でわかります。歩兵第三連隊が、226事件の主軸でした。

天皇の親衛隊とも言うべき近衛師団、首都の守りを担う第一師団という重要師団ですが、傘下の連隊から反乱者が出てしまいます。

総勢1400名以上。
歩兵第三連隊のうち(野中大尉ほか3中隊程度) 400名が朝5時に警視庁に向かい、一気に占拠します。

当時の警視庁は屈辱的な事態に嘆息したのでしょうが、早朝ということと、機関銃装備の軍に勝つことはできませんでした。

反乱軍の指揮官は皆二十代から三十代の若手、壮年の士官学校出の中尉や大尉です。

大元帥たる天皇の命令なく、勝手に軍隊を動かし、天皇が任命した重臣達を殺戮してしまいます。
政治テロが横行し、減刑嘆願などで多くの国民がテロに喝采を叫ぶような混乱の時代で、下への押さえがきかなくなっていたのでしょうね。

軍への抑えを効かせていた明治の元勲は、西園寺公望を除いて皆亡くなり、陸海軍でも薩長藩閥の排除が進みます。

世界恐慌に有効な手を打てない政治に国民が嫌気が差し、軍に期待するような風が吹き始めていたみたいです。

世襲政治家、世襲の貴族院議員などの役立たずの存在が、きっと政治不信に拍車をかけ、不満分子への抑えが効かない状態になっていたのでしょう。

反乱は数日で収まり、参加した将校達も刑死(銃殺)等で排除され、陸軍内の派閥抗争も決着しますが、226事件以降、陸軍に意見できる者はいなくなり、ドイツへの傾倒、米英への軽侮など、世界情勢を見誤った日本は、勝算のない戦争に突き進んでいくのです。

事件の主力部隊であった歩兵第三連隊は、今は国立新美術館になっているそうです。

グーグルマップで国立新美術館と警視庁のルート検索をしてみましたが、徒歩43分でした。フル装備であっても一時間程度の行軍でしょうか。

当時、反乱部隊が歩いた道かどうかはわかりませんが、上京するときがもしあれば、歩いてみたいですね。




 

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