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シングルマザーが小学生の息子とホテルですごした14日間

はじめまして。小学生のひとり息子に毎日翻弄されているシングルマザーのわがぶたです。

タイトルの通り、私と息子は昨年の夏の二週間、ホテルで生活をしていました。
8月17日から30日まで、ホテルで起き、ホテルで仕事をし、ホテルでご飯を食べて、ホテルでお風呂に入り、ホテルのコインランドリーで洗濯をして、ホテルで寝ていました。
ネットショッピングの商品もホテルに届けてもらい、買い物もホテル周辺で済ませていました。

なんだ、贅沢か?いいえ、そんな余裕は一切ございません。通帳を見て溜息を吐く日々でございます。
端的にいうと、私たち親子は帰る家を失いました。

ざっと、離婚からホテル生活になるまでの経緯をお話します。
私は、子供が三歳のとき、四歳になる年の八月に離婚をしました。
今思えば、私にとって八月はなにかと節目だったり、転んだり起き上がったり、縁のある月な気がします。
一昨年の八月は災害級の大雨の被害にあい、今年は初めてコロナに罹患しました。(絶賛後遺症と戦ってます)

八月との縁はさておき、私は二十代のほとんどの時間を元旦那と過ごしました。
婚姻関係になってからは、元旦那、元旦那の前妻との子、息子、そして私の四人で生活を構成させていました。
よーいドンから離婚まで、日々の記憶がありません。『気付けば離婚していた』くらいのスピード感というか、未整理感でした。
毎日なにかしらの壁にぶつかっていて、ジェットコースターハイな状態だったのだと思います。
どこの家庭もそんなようなものかもしれないと、独り身になった今はそう思います。しかし当時は、「私が一番不幸だ」とか「どこで間違えたんだろう」と、『地獄のような状況でも私はがんばってる!』ムーブがきていたのでしょう。
家庭のズレをずっと誰かのせいにして、私が変わろうとは微塵も思っていませんでした。
今だから思える話なわけで、「じゃあ離婚しないほうが良かったの?」と聞かれても、答えはノーです。
今でも「離婚してよかった!!!!」と大声で叫べます。ダブルピース付きで。
上記はただの反省点であって、『結婚は二度としない。なぜなら私は結婚に向いていないので』と、これからの教訓として活かしているだけです。
繰り返しになりますが、離婚はしてよかったです。


さて、私は離婚時に元旦那との生活で抱えた借金がありました。
そのため当初から子どもとふたりで暮らす選択肢なんてものはなく、当時住んでいた千葉から愛車で八時間、北陸の実家に戻りました。
そして返済と自立の準備を重ねていき、四年。
昨年三月に実家から旅立つ決意が固まりました。きっかけは、愛する祖母の死でした。
転職活動、住居決め、家具家電選びを経て、七月に北陸から上京。この上京準備が怖いくらいにスムーズに進みまして、唯一頭を抱えたのは愛車を手放す覚悟をなかなか持てなかったことくらいです。それも上京ギリギリでしたが、ちゃんとお別れしました。
息子と同い年の軽自動車と感動の別れを、しっかりと。

しかし、やはりそんな甘いものではなかった。人生なにが起きるかわからない。正しく、これです。痛感という言葉では表せないほどに身に刻みました。
決死の上京から一ヶ月も経たない八月十七日、私と息子は帰る家を失いました。
おそらく、私はこの日付を一生忘れないと思います。



ホテルでの生活は不便でもあり、楽でもありました。
荷物を増やすわけにいかないとはいえ、まだ小学生の息子に1日中部屋から出ることができない毎日は苦痛でしかなかったと思います。
ゲームは早々に飽き、リモートワークをしている私に「散歩いったら、だめ?」と1時間おきに聞いてきました。
見知らぬ土地の、見知らぬホテル周辺。もちろん私は「だめです」と答えます。その代わりに、やることをすべて終えてからホテル周辺を一周する約束をしていました。
それでもやはり日中の時間を持て余していた息子に本と自由帳を買うしかできませんでした。なんといっても資金がありませんので、自由帳には大変助けられました。
そうして荷物は順調に増えていき、ホテル滞在中にスーツケースを購入しました。

他にもいろいろと困ったことはありましたが、最も私のメンタルを攻撃してきたことといえば、明日、下手したら今日、寝る場所が確保されていないという不安です。

スーツケースを転がしながら、その日に空いているホテルを転々とする毎日。終盤は同じホテルで連泊できましたが、なんといっても夏休みでしたので、23時まで当日の寝床が見つからない日もありました。
汗だくでたどり着いたホテルで怪しまれまくって受付から進めなかったり、親指くらいのサイズの蜂に襲われながら洗濯機が空くのを待っていたり、必ずどこかしらでエラーが発生する毎日に、メンタルをガリガリ削られていきました。
なによりも、息子に大変な思いをさせてしまっている自覚が、私の『なにくそ精神』を完膚なきまでに倒そうとしていました。
「ほれ、白旗あげろよ。負けを認めて実家に帰れ」と、ずっとファイテングポーズとりながら囁いてくるんですよね。なにかが。

「息子にすごい惨めな想いをさせてるんじゃない?私じゃなくて元旦那のところにいたほうが息子は幸せだったのかも。そもそも上京自体、間違えていたのか?」
新しいシーツによだれを垂らして寝ている息子に謝りながら寝るのがルーティン化していました。

息子にも学校にも市役所の人にも、頭を下げまくっていました。「お母ちゃんが不甲斐ないばかりに申し訳ない!生きててごめん!」くらいのメンタルが続き、飲みなれていない缶ビールを衝動的に手に取り、でもやっぱり美味しく感じなくて1本を3日かけて飲み干しながら『荒れてる私』に酔っていたのかもしれません。

そしてそこに追い討ちをかけるように、市から連絡が入りました。
「夏休み終了までに子供が安定した生活を送れないのであれば施設に保護をすることも視野に入れないと」
私たちを心配してくれながら提案してきてくれた方には申し訳ないのですが、私はそのとき、地獄の底を見ました。割と本気で。
(冷静になった今、当然の措置だったんだなぁと理解していますが、その時は息子と私を引き裂く悪魔だと思ってしまっていました。負の感情ってこわい)
穏やかな生活を送れないエセ大人が母親でごめんね、と息子の顔を見ては涙と鼻水を飲み込んでいた夏。
そんな、私史上最低最悪だった夏は、無事に幕引きしました。

その数ヵ月後に、私の身体にがん細胞が見つかることにより、強制幕引きです。
家に悩んでる場合じゃない!となったわけです。


なにはともあれ、私と息子は改めて一歩を踏み出して、ふたりでの生活の再スタートを切ることができました。
そんな私たちの紆余曲折してきたのか穏やかだったのかわからない、とにかく忘れたくても忘れられないだろうひと夏を、綴っていきたいと思います。

私の根っこに「楽しんだもん勝ちマインド」が生まれるまでの地獄の日々を書いて、乗り越えたんだぞーって両手上げて花吹雪を浴びようと目論んでいます。

なぜ急にそう思ったのか。
触発されたんです。
離婚直前は相当に空っぽな毎日を過ごしていたので、恥を晒そうだとか、かっこわるい自分を発信しようだなんて思いは一滴もありませんでした。
ふ、と目にとまった大木亜希子様の文章に触れて、ぶわぁっと冷や汗が流れました。なぜか、なんてわかりません。でもすごい焦ったのです。

いつか息子がこれを読んで笑ってくれれば及第点、笑い合えたら花丸百点。
そう思っています。

前置きが長くなりましたが、この文章をお読みくださった方、出会ってくださった方。
どうぞ、よろしくお願いいたします。


24.8.21追記
表紙は息子が描いてくれた絵を載せていくことにしました☺️
(なかなかの画伯っぷりです)

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