家がなくなるまで-終
夏休みも終わりに近付き7月のカレンダーを寂しげに眺める小学生の息子とふたりで暮らしているシングルマザーのわがぶたです。
さて、6回に渡り綴らせていただいた私と息子のホテル生活も、とうとう終わりを迎えます。
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ホテル生活7日目に着いたのは、羽田空港から数駅のビジネスホテルでした。
なんの運命か。そこは祖母が亡くなったときに利用させていただいたホテルでした。
私が実家からでて、子どもと暮らしていく決意をしたのは祖母からの一言がきっかけでした。
身体が衰えるまで祖母は、羽田でひとりで暮らしていました。
祖母は生まれつき耳が聞こえなかったのですが、そんな壁を物ともせずに、どんなときも笑顔でした。
しかしコロナに罹患した後、祖母はなかなか笑わなくなってしまいました。いつでもパワフルだった祖母から笑顔が消え、生きる力もなくなってしまったのです。
もうひとりで暮らすことはできないと判断し、私が実家から自立するちょうど1年前の夏に祖母を引き取りました。
祖母は実家の北陸で息を引き取りましたが、きっと羽田に帰りたいだろうと葬儀とは別に羽田でお別れ会をしたのです。
そのお別れ会をしたときに宿泊したホテルに、もう一度戻ってきた。
なんだか不思議な縁を感じました。
祖母が息を引き取る2日前のことでした。
夜中に物音がして、私は祖母の寝室へ様子を見に行ったのです。
普段はみんな寝ている時間ですから、寝室で祖母が窓の外を眺めていたのには驚きました。
トイレに行きたいのか、気分が悪いのか。私は祖母に尋ねましたが、祖母は返事をくれませんでした。
「息子くんがしたいことをできる場所で生きなさい。息子くんを守りなさい、あなたにしかできないから」
そう言い、またベッドに戻ってしまいました。
祖母が居なくなり、散々悲しんだ後で祖母がくれた言葉を噛み締めました。
離婚時に抱えた借金も完済の目処がたっていて、貯金もできていました。
私の両親は酒豪の酒乱で、私が幼い頃から諍いの絶えない家庭でした。
そのため実家に戻るとき『2〜3年で実家を出る』と決めていたはずなのに、責任を背負わなくていいぬるま湯が心地よくてズルズルと過ごしてしまっていたのです。
予想外のアクシデントが多発し、つい見失ってしまっていました。
実家に戻るときの覚悟、実家を出るときの覚悟。
息子を守るために離婚をして、実家を出たにも関わらず、結局不安にさせてしまっている。
息子が安心できる家をもう一度探そう。息子を守れるのは私しかいない。
祖母とお別れをした思い出のホテルで、もう一度思い出したのです。
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次の日からは連泊していたビジネスホテルに戻ることができました。
今でも、なぜこの土曜日だけホテルが埋まっていたのか不思議に思いますが、弱気になっている私に、祖母が喝を入れてくれたのかもしれないと、そう受け止めることにしました。
ビジネスホテルに戻り、私はすぐに電話をかけました。
4年ぶりに、元旦那の連絡先を開いたのです。
婚姻時に購入していたマンションに、今は旦那ひとりで住んでいるはず。そして旦那は夜遅くまで帰ってこないし、始発レベルの早朝に家を出るはず。
藁にもすがる、とはこういったことを言うのだと痛感しました。
実は2日前の金曜日、役所の方から連絡がきていたのです。
夏休みが終わるまでに住所を確定させなければ、子どもを保護することも視野に入れる、と。
くだらない私のプライドだとか、世間体だとか、向こうの都合だとか、すべての考えを一巡させて「とりあえず聞いてみよう」と猪並に猛進したのです。
そして空いている部屋を間借りさせてもらうことになりました。
案の定、元旦那は寝るときしか家にいないらしく、すんなりOKをもらいました。
すぐに荷物を置ける状況にないから少し待ってほしいと言われ、その日は電話を切りました。
上京してから1ヶ月での再引越し。しかも家具家電は害虫たちの被害に遭っている可能性が高く、買い直さなくてはならなくなりました。
4年間の貯金は底を尽きました。そしてとりあえずは向かう場所が決まったものの、一時的な間借りという約束です。
遅くとも年内には新しい部屋を見つけて、また引っ越さなくてはいけない。
それでも『今日、明日の寝る場所がない』という恐怖や不安が解消されたことは大きな一歩だったのです。
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それから滞っていた不動産屋さんとの交渉もリズム良く進みました。
結果、以下の費用を不動産屋さんが負担してくださることで、話は落ち着きました。
・8月ホテル生活していた日数分の家賃
・害虫駆除業者の費用
・次の住居への引越し費用
・ホテル宿泊費
ちなみに下記が、私が負担したものです。
・ホテル生活での生活費(食費や洗濯代、日用品費)
・交通費
・敷金
・家具家電処分費
・家具家電再購入費
(欠陥工事と関係ありませんが、小学校の備品を2回買い直したのも地味に痛い出費でした……体操服の2回購入が1番のダメージでした。使わなかった体操服は寝巻きになってます)
(あと不動産屋さんとの交渉のために結構休ませていただいたので9月支給された給与が驚くほど少なかったです)
地獄の終わりが見えてきた。
残りのホテル生活は、遠くにみえる光に向かって進んでいるような感覚でした。
たかが2週間。でも私と息子にしてみれば数十年のように長く感じた2週間でした。
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引越しの話も進み、アパート引渡しの日が訪れました。
引越し業者の方がどんどん荷物を搬出していきます。
1ヶ月前に部屋に置いた荷物がなくなっていく。
その光景を、息子はずっと見つめていました。
泣きも笑いもせず、1ヶ月前の空っぽな状態に戻っていく部屋を眺め続けていました。
これからはこの家で暮らしていくんだと、不安や緊張、楽しみが入り交じっていた上京してきた日。
その日の私も息子も、まさかこんなに早く、こんな別れをすることになるだなんて微塵も思っていませんでした。
不動産屋さんとの話し合いの最中、私は何度も「できることなら、この部屋に住み続けたかった」と言いました。
引越してきた日。私は、この部屋で息子と過ごす年末を想像していました。
こたつに入り、ふたりで紅白歌合戦を見よう。年越しそばを食べながら、こたつで眠くなる息子の姿を見るのを楽しみにしていました。
1ヶ月も暮らしていない部屋でしたが、私と息子にとっては『スタートの場所』だったのです。
この先、たとえ豪邸に住もうが、マンションを買おうが、あの部屋が私たち親子にとってかけがえのない場所であることには変わりありません。
たった1ヶ月にも満たないあの部屋での生活は、宝物です。
眠れない夜も、恐怖も不安もありました。
でもそれを越えるほどの楽しくて幸せな時間があったのです。
あの部屋を越える家に出会えないと思っているわけではなくて、私と息子のスタートラインは、あの部屋だった。それはこの先ずっと変わらないことなのです。
荷物も全て搬出され、部屋をでるときのことでした。
息子は「大好きだったよ」と言って手を振り、私たち親子のスタートラインと、さよならをしました。
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地獄のような日々を乗り越えた今では、「ホテル生活なんて、この先簡単に経験できることじゃないな」と笑い話にできています。
けれど、私の人生1、2位を争うほどの過酷な2週間でした。
余談ですが、元旦那のマンションは歩いていると足の裏が真っ黒になるほどの汚さでした。
すぐに清掃業者を依頼したのですが、喘息持ちの息子が発作を起こしだしたので3週間ほどで部屋を決め、再々引越しをしました。
元旦那と顔を合わせることも片手で足りるほどしかなかったので、そこは元旦那に感謝です。(恐らく気まずかったのか、気を遣ってくれたか)
7〜9月の間で3回の引越しをし、家具家電も買い替えたので貯金はすっからかんに。
しかも引越した先(今住んでいる部屋)は、間借りしていたマンションと小学校の学区がちがうので、4回目の引越しが必須。
さて仕事がんばるぞ!と思った矢先に、がん細胞が見つかったのですが、それはまた別に綴らせていただきます。
ここまで立て続けに色々あると落ち込んでる暇もなく、良い意味で図太くなれた気がします。(それが成長かどうかは、まだわかりませんが)
今の住居に越してきたあと、私は息子に「大変な想いさせてごめんね」と伝えました。
きっと私よりも不安や心配、悲しみや寂しさを感じていた息子からの返事は、予想外なものでした。
「大変だったのは、お母さんだよ。僕は楽しかったから大丈夫」
そして息子は「ありがとう」と、言ってくれました。
『育児は育自』と言いますが、息子に気付かされたことは数えきれないほどあります。
今はまだ情けなく不甲斐ない親ですが、息子がくれた言葉を胸張って受け止められるようになろう。
そう心に決め、二人暮らしの再スタートを切りました。
それから、もうすぐ1年が経とうとしています。
なんとかやってきた1年。でもあっという間の1年でした。
この先たくさんの毎日を息子と過ごしていきますが、2023年夏の2週間を、私は生涯、鮮明に覚えていると思います。
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拙い文章ではありますが、また読みにきていただけますと跳ねて喜びます。
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