纏わり付き、とけていく。
人は名前のついていないものに恐怖を覚え、
名前がつくと安心する生き物らしい。
身を持って実感した。
28歳になってからだろうか。
原因の分からない憂鬱な気持ちに悩まされることが増えた。
誰とも関わりたくないし話したくない。
1人にさせてほしい。そんな時間が割と長め続いた。仕事は在宅ではないし大きな枠組みでみると医療関係の仕事なので現場ありき。休むわけにはいかない。からだのどこかが悪いわけでもなく、心だけが世間と遮断したがっていた。
なので職場の人とも仕事のことで何かあれば話さなければいけないし、患者さんとも毎日話す。お昼を外に食べに行くにもセルフオーダーではないお店に行くのが苦痛だった。できれば誰とも話したくない。でもなにがそうさせているのか原因が分からないというのが怖かった。
病院いったほうがいいのだろうか。そこまで考えた。でも自分自身から逃げているだけなのではないかという気持ちと適度に休んでいるし自分が心の病になるわけがないという過信、向精神薬に対して怖い記憶があること。絶対に飲まない、飲みたくないという強固足る気持ちがある。
そんなこんなでやり過ごしていたらある日突然すっとその気持ちは抜けていった。
PMSによる気分の落ち込みで3年ほど前から通院をしており未だに自分にあう薬と漢方が見つけられていない。だから月に1回は必ずといっていいほど精神的に病む。
ここ最近も原因の分からない憂鬱な気持ちで生理前だったからPMSだと思っていた。生理が始まっても終わっても憂鬱な気分は抜けず、だらだらと憂鬱な気持ちが私に纏わり付く。
昔はこんなことなかったのに原因の分からない憂鬱な気持ちになることが増えたのだろうはなぜだろう。何か私の中で変わってしまったのだろうか。それこそ病院へいくことも再度考えた。
先日、よくみている同年代のYouTuberから
「クォーターライフクライシス」
という言葉を聞いた。
あ、これだ。と思った。
見終わったあとに調べたら当てはまりすぎている。
私の心に纏わり付く憂鬱な気持ちがとけていくように心が少し軽くなった。この気持ちに名前がついたことによる安心感だろう。
クォーターライフクライシスに陥ったひとつの原因がこの言葉にあると思っている。
敏感な年齢だからこそ目についてしまう
「愛」「結婚」という言葉。
大好きなミュージシャンも恋と愛の違いが私には明確な答えがあると話していて、別の場面でも愛は総じてくだらないと話していた。
じゃあ結局愛ってなんなの?
ぐるぐると考える日々。
無意識に逃げていた言葉たち。
そんな言葉が重く負担に感じていた。
なんでこんなにも、結婚=幸せの象徴や風潮として社会に浸透しているのか。自分自身に芽生えているのか。それはあまりにも結婚がゴールとして見過ぎているからだろう。
もちろん全ての結婚が幸せだと断言はしません。経験のない私にはあまりにも未熟で無責任だから。
向き合いながらうまく付き合いながら自分の人生どうしていきたいか考えないとっていうのは今の私にとって綺麗事にすぎない。
書くだけなのは簡単なんだよ。行動に起こすか起こさないかは自分次第だし逃げてはいけないこともわかっている。未来の自分をつくるのは今の自分。
あゝ世の中に対して自分自身に対して
ひねくれてしまったな。
這い上がれると信じて
いつか花が咲くと信じて。
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