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4.公正証書遺言を作成する

 さて。法律事務所には、いわゆる資産家の方々も訪れる。彼らを顧客に抱えることは法律事務所の経営にとって極めて重要なことだ。高額な着手金・報酬が見込め、事務所の経営がぐっと安定するからだ。

 そんな彼らが高齢になると次第にソワソワし始める。蓄えた資産を、自分の望む者に望むように配分することを考え始めるからだ。また、相続人たちが過大な相続税に悩まないようにするにはどうしたらいいか、つまり節税であるが、そんなことばかりを考えるようになる。

津山「藤原君、明日オヤジの友人の曲谷さんが来るから」

 オヤジとは先代のボス弁護士の津山喜八のことだ。先輩によると、津山喜八の交友関係は大変広範囲に及び、先代は経営の利益に繋げることに腐心していたという。お客様としてこの事務所に引っ張っていたということだ。

津山「曲谷さんはオヤジと陸軍士官学校時代の同窓だ。南方方面で共に戦ったこともあり、戦友で大親友だ」

藤原「そうですか。戦友ですか」

 戦友という言葉は辞書に掲載されている。『戦争で同じ部隊に属し労苦を共にした仲間』みたいな意味だ。けれど、日本人が戦争から遠ざかって100年。その言葉を本当の意味で体感できる人間がどれほどいるだろうか。

 確かに「俺とあいつは戦友だ」とか口にする人は結構いるけれど、それはモノの例えみたいなものだろう。

津山「なんだ、感動のない響きだな」

藤原「だって。戦友という言葉は、先輩だって本当のところは理解してないと思いますよ」

津山「そんなことはない。大学にバリケードを構築して砦にして立て籠もり、迫り来る機動隊と闘ったんだ。あれも戦いだぞ。あの時の同志は我が戦友だよ」

 また始まったと思った。先輩は今でこそ名の通った企業法務弁護士としての面構えを装っているが、そもそもは左翼活動家なのだ。

 もっとも。別段黒歴史として隠している風でもない。活動家としての経歴を常に誇って来るからだ。未だにマルクス主義の教条的な書籍に目を通していたりする。他方で大企業の監査役に収まり、経営者の集まりなんかにも頻繁に顔を出して交友に余念がない。

(どうなってんだ、思想やら精神は)俺は呆れていた。

藤原「何度も聞いてます。で、最後は機動隊の突入により白旗を掲げたんでしたっけ」

 俺のあけすけな言葉に先輩はムッとした。

津山「白旗ではない。積極的転進だ。戦略の変更だ。無意味な抗戦は犠牲を増やすばかりだからな」

 思えば日本は平和だ。近隣の独裁国なら、先輩は収容所に放り込まれておしまいであったろう。それをこうやって弁護士として大きな顔で振る舞うのを許容しているのだから。

藤原「で、曲谷さんはどういった御用件でお越しに?」

津山「お、そうそう。肝心なこと言ってなかったな。遺言書(イゴンショ)の作成だ」

 一般の方は遺言を『ユイゴン』と読むと思うが、法曹界では『イゴン』と読む。弁護士と称する者で『ユイゴン』と読む者があればそいつはニセモノなので注意したほうが良い。

津山「遺言公正証書を作成したいとのことだ」

藤原「公正証書ですか」

 遺言書というと、多くの人は自分で作成する遺言書つまり『自筆証書遺言』のことを想起すると思う。自宅の居間で、心静かに便箋に清書していくスタイルだ。

 だが、自筆証書遺書には要件があるので注意が必要だ。すなわち、遺言者本人が、全文、日付及び氏名を自書しなければならない(民法968条1項)。いずれかの要件を欠くと無効になる。署名だけ直筆で内容をパソコンでタイピングしたりすると無効になってしまう。家族のことを考え抜いた良い内容の遺言であっても、問答無用に無効だ。

 また、自筆証書遺書の場合、自宅に保管することが多いから、紛失することもあるし、発見されないままのこともあろう。発見されたとしても、遺言書の存在が不利益だと判断されれば関係者に隠匿されることもあろう。

 だから、自分の遺志を死後もキチンと通したいのであれば、公正証書遺言がおすすめである。遺言書を公正証書にすること、つまり公証役場で公証人により遺言書を作成してもらうことだ。

 公証人は元裁判官・元検察官であり、全員法律のプロである。その吟味を経ると要件不備を心配する必要はなくなる。加えて公正証書元本は公証役場にて保管されるから、破棄・隠匿の心配もなくなるというわけだ。

 作成手数料は最低でも数万円はかかる。最低限というのは、資産額に応じて価格が決まるからだ。

津山「明日来所されることになったから、君も同席してくれ。君には遺産目録を作成してもらう」

 遺産目録をきっちり残すことは相続人にとって極めて大事なことだ。財産がどれほどあるかがわからないと、相続税を払うこともできないからだ。

津山「委任契約書、委任状、請求書も用意しておいてくれ。その場で署名押印してもらうから」

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