5.公正証書遺言を作成する(その6)

津山「そうか。生命に別条ないか。ならば安心だ」

藤原「でも、公証人の意思能力の判断が気がかりです」

津山「それはそんなに心配する必要はないよ」

藤原「そうなんですか?」

津山「ああ。何らかの形で意思を通じ合えるのならば、意思能力は文句なく認められるであろう」

 先輩はさして気にも留めていないようであった。そんなものなのであろうか。

 弁護士はニヤリとした。

津山「理由があるんだよ」

藤原「どんな理由ですか?」

津山「公証人は遺言書を作成してはじめて報酬をいただくことができる。いわば出来高払い制だ。だから、なるべく遺言書を有効に成立させたいのだ」

藤原「なるほど、そういうことですか」

津山「そうさ。『あー』とか『うー』とかしか言うことのできない遺言者の遺言を認めるのに立ち会ったことがある。頷いているということで意思疎通ができたと解釈した訳だ。さすがに呆れたけどね」

藤原「いくらなんでもそれは…」

津山「まあね。ただ遺言書は親族の平和を守るためのルールになり得るものだ。だから、なるべく成立させた方が良いのは確かだけれどな」

藤原「今回のは?」

 今回の遺言書がそういうものになりうるか、少し疑問だ。

津山「そいつはわからんな」先輩は苦笑した。

津山「ともかく。更なる急変があれば一大事。死んでしまっては遺言書も書けないからな。急いで予定を入れてくれ」

藤原「分かりました。錦織公証人には病院にお越しいただくよう手配しておきます」

 公証人は、事情を説明すれば、病院や療養施設に出張してくれる。もちろん交通費などの実費は取られるけど。死ぬ間際の遺言者も多いから、病床での作成例は多い。

一週間後。曲谷さんが入院する病院に錦織公証人にお越しいただいた。津山弁護士と俺が証人として立ち会う。

錦織公証人「では、お名前をお聞かせ願えますか」

曲谷「ま、が…りたに…せいじ」

錦織「曲谷誠司さんですね。次に生年月日をおっしゃってください」

曲谷「し…ようわ3…ろ…月…ふ…つ…か」

錦織「昭和3年6月2日ですね」

 公証人が頷いた。意思能力の試験はパスした模様だ。

 あとは、事前に渡した遺言書のメモを読み上げ、その都度、曲谷さんの意思を確認していく。

 最後に署名押印である。これがないと公正証書は有効とならない。

 曲谷さんは力を振り絞り何とか署名したが、押印は「ムリだ」と断念された。力が入らないのだ。

 公証人の眼前だから、押印を補佐しても差し支えない。健康状態で署名も押印もできない場合には、公証人が代わって代筆し押印することになる。

 本件でも錦織公証人が「では代わって押捺させていただきます」と言って、ぐいっと曲谷さんの印鑑を押捺した。

錦織「では、証人のお二人も署名押印願います」

 津山弁護士がさらさらと署名し職印を押捺する。

 続いて俺が署名する。『藤原雅俊』と。そして、滅多に使うことのない認印を取り出し入念に押捺した。これが遺言書の原本になるのだから、粗相は許されない。明瞭に印影が紙に写るようにしなければ。

 印鑑を押したまま縁が転写されるよう力を込める。印鑑を持つ右手を上げると、鮮やかな印影が証書の紙面に現れた。安堵する。

「終わりました」

錦織「ありがとうございます。正本と謄本に仕上げますので、しばらくおまちください」

 こうして遺言公正証書が完成した。原本は公証役場で保管され、正本と謄本一通は遺言者の代理人である私たちに渡される。事務所の金庫にて厳重に保管することになる。

 遺言者が死亡すれば、遺言内容を実現すべく遺言執行事務に取り掛かる。公的機関や金融機関にこの遺言公正証書を提出することになる。

 ちなみに正本とは原本の写しで法律上原本と同一の効力を有する書面のことをいう。謄本は原本全部の写しのことを言う。

 ただ、謄本にも認証文言がつくから正本と同じように機能する。だから、どこの公的機関・金融機関も謄本で受け付けてくれる。我々事務職員は、この謄本を持って回ったり、郵送したりすることが多い。

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