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No. 14 英語教育とidentityについて 13【基礎編①】

はじめに

ここまで英語学習・教育とidentityについて、様々な研究を紹介したり、周囲で実際に起きていることを考察したりしてきました。

今回は一度基本に立ち返って、ものすごく身近なところからことばとidentityについて考えていきたいと思います。
以前Instagramに載せた内容を少し詳しく書いてみました。もしよろしければInstagramもご覧いただき、さらにもしよろしければいいねやフォローをお願いします!

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ことばとidentity

「ことばとidentityは関連がある」

よほどの知識や思想がないかぎりこれを否定する人はいないと思います。そして、もしこれが真なら、以下のことも言えそうです。

「第二言語とidentityも関連がある」

これも「まあねえ」と納得していただけるのではないでしょうか。ただこう聞くと、もしかしたら「第二言語(ここでは英語にします)なんてそんなに上手に使えないよ・・・」と思われる方もいるかもしれません。ですが、ここでは英語の得手不得手は対して影響しません。

第二言語を使ってその言語のコミュニティに参加することは、自動的にあなたのidentitiesが変わる、もしくは違ったidentitiesを構築・表現するチャンスをもたらします。こういったidentityの変化をidentity shiftと呼びます。

今回の投稿では、英語話者が日本語を学ぶケースと日本語話者が英語を学ぶケースでを中心に考えていきましょう。

一人称によるidentity shift 

とてもシンプルな例ですが、日本語と英語では一人称に大きな違いがあります。

日本語:私、僕、あたし、俺、ワシ、うち、おいら、自分、自分の名前(例 花子) など 

英語: I 

いかがでしょうか。日本語には実にたくさんの一人称があり、それによってidentityを表しています(常に「僕」という人と、「俺」という人では印象が違いますよね?)

この英語と日本語の違いは大きなものです。

たとえば日本語話者が英語を使う場合、一人称によってidentityを示すことが難しくなります。ただ、僕の場合だと、英語を使うときにはどの一人称を使うかいちいち考える必要がないため、ある意味では常にニュートラルな「自分」でいられるような気がして楽に感じます(ちなみに僕は、フォーマルでは「私」、セミフォーマルでは「僕」、カジュアルでは「俺」を使っています。フィットしないのを選ぶと少し恥ずかしいし、考えるのがちょっとめんどくさいです 笑)。

逆に英語話者が日本語を使う時、彼らは少し頭を使うことになります。おそらく教科書や学校では、文脈やジェンダーに関係なくいつでも使える「私」を習うと思いますが、実際常に「私」を使う人はそう多くないため、日本語話者と話したときに驚くことでしょう。また、そもそも日本語には主語を省く傾向があるため、英語の文の和訳して話すと、その都度「私は〜」と話していて少し主張が強く聞こえるかもしれません(そう思わないでほしいですが)。一方、私とは逆で、英語話者は日本語を使うときに一人称を選択する必要性が出てきます。それぞれの一人称がどのような雰囲気なのかを知り、そのうえで自分で選択しなければなりません。人によっては大変でしょうが、私のアメリカ人の友達の場合、この選択を好ましく思っていました。彼がいうには、「一人称で違った自分を表せる(=違ったidentityを構築・表現できる)から」ということでした。 

一人称の違いは、たとえ学習している言語のレベルが低くてもすぐに出会う「ことばの違い」です。実際、私の教えている中学1年生にこの話をしたときに、彼らはこの違いに興味を持っているようでした。このブログの読者の皆様も、この投稿を機に一人称とidentityについて考えてみると言葉の学習が楽しくなるかもしれません。

呼び名とidentity shift 

極端な言い方をすれば、「呼び名はidentityを付与する行為」です。たとえば、学校現場では「〇〇君/さん」と分けて呼ぶのをやめるようになっています。それは呼ぶ相手に対して、「ジェンダー」identityを必然的に押し付けてしまうからです。また、その延長で、小学校ではニックネームで呼ぶことを禁止する流れもあるようです(これは少々やり過ぎだと思いますが。。また機会があればこのことについて書きます)。このように、どう呼ぶかとidentityは密接な関係があります。

そして、日本語での呼び名と英語での呼び名は結構違うところがあります。

日本語では「苗字呼び」することが結構あると思いますが、英語ではこれは基本的にしません。親しくない人でも職場の人でも、先生でも生徒でも、夫婦でも友達の親でも、英語では「名前呼び」するのが不自然なことではない、むしろ自然なことなのです。

このことは知っている人も多いかと思いますが、いざ自分が経験すると新鮮なものです。たとえば僕の場合、日本の学校では苗字や苗字からとったニックネームで呼ばれることが多かったですが、留学中どこでも名前で呼ばれるので、「なんだか親しい感じがするな」と嬉しく思いました。また、私の母(60代)は普段名前で呼ばれることが一切ありませんが、英会話教室では「カオリ(仮名)」と呼ばれるので新鮮だし、「母でも職場の一員でもない自分」らしくいられる気がするのだといっています。

このように、「呼び名はidentityを付与する行為」と考えることができます。

これを応用すると、「夫婦の関係」にも何かヒントがあるかもしれません。日本の夫婦では、「ママ/パパ」と子どもの前のみならずお互いを呼び合うときにも使う人が少なくないと思いますが、これはある意味では「ママ/パパ」というidentityを相手に与え続けている行為ともいえるのです。これでは男女としての「夫婦」でいるのが難しくてもおかしくありません(もちろん問題ない夫婦も多いと思いますが)。もし「夫婦らしくいたいのに何かぎこちない」「ママ/パパという役割に疲れている」という場合には、この投稿を思い出して、相手の名前や呼ばれたい名前で呼んでみるのがいいかもしれませんね。 

おわりに

今回は、ことばとidentityの基本に戻ってその関連性を見てきました。身近な例だったので、ことばとidentityが関わっていること、また第二言語を学ぶことでidentitiesを構築・表現できるということが理解しやすかったのではないかと思います。

これは学んでいる言語の熟達度にかかわらず、その言語を使う全ての人に関係しています。この投稿を機に、第二言語とidentityについて考えてもらえると幸いです。

英語学習者のみなさま

今回の例だけでなく、英語を学ぶと様々な場面でidentityと関わってくることがあります。その際、いろいろなことに思考を巡らせ、自分好みのidentitiesを構築・表現できるように頑張ってみてください。

また、小学校での呼び名のことなど、英語とは関係なくてもことばとidentityについて少し考えるようにしてみてほしいと思います。「○○君/さんと区別するのはいけないのか?なぜいけないのか?」「ニックネーム呼び禁止は本当にいいことなのだろうか?メリット・デメリットはなんだろうか?」など、普段からことばとidentityについて考えると、英語学習もより深みが出て楽しくなると思います! 

英語教育者のみなさま

英語学習者に、身近な例からことばとidentityについて考えさせる時間を設けると、学習者の「ことばへの感受性」を養うことができるかもしれません。

また、「英語の授業を英語で」授業をされている方は、授業中の呼び名を考えてみるといいかもしれません。普段通り「〇〇さん」などと呼んでいると、普段の関係性が続いてしまうでしょう。教室に「英語コミュニティ」を形成し、そのコミュニティに学習者を「参加」させることで英語を学ばせたいと思うなら、呼び名は英語で一般的な「名前呼び」が良いかもしれません。もちろん生徒が好むものでないと、identityの押し付けになるので注意が必要ですが、少なくとも呼び名については一考の価値があるのだということをお分かりいただけていたら幸いです。

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