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【英文学の名言】フランシス・ホジソン・バーネット~逆境を乗り越え大輪の薔薇を咲かせた女性~(2024年3月14日リニューアル&追記)
こんにちは
本日はフランシス・ホジソン・バーネットの名言を見ていきたいと思う。
彼女は児童文学では有名な『小公子』、『小公女』(若松賤子訳においては『セアラ・クルーの物語』と表記。)、『秘密の花園』の作者である。
また、有名な翻訳家である若松賤子についても紹介していきたい。
バーネットの経歴
まず、バーネットの経歴を見ていきたい。
フランシス・イライザ・ホジソンはイギリスのマンチェスターに生まれたが、幼い頃に父を亡くし、1865年、16歳で一家と共にアメリカのテネシー州ノックスヴィルへと移住した。1868年、女性向け月刊雑誌『ゴーディズ・レディース・ブック』(Godey's Lady's Book)に『心とダイヤモンド』(Hearts and Diamonds)を発表する。1873年に医者のスワン・バーネット(Swan Burnett)とワシントンD.C.で結婚し、ライオネル(成人前に病死)とヴィヴィアンの二人の男の子をもうける。
1886年には『小公子』(Little Lord Fauntleroy)を雑誌『セント・ニコラス』(St. Nicholas Magazine)に発表する。児童向けとして書かれた本だったが、母親達に大いに人気を博し、バーネットの次男ヴィヴィアンの髪型を元にした主人公のロングカールの髪型と、オスカー・ワイルドの正装を元にしたレースの襟がついたベルベットのスーツ、通称フォントルロイ・スーツが大流行した。この本は、50万部を売り上げた。
1888年『セーラ・クルー』(Sara Crewe)を発表、この作品は1905年に『小公女』(A Little Princess)と改題されて書き直された。
1890年代半ばからは主にイングランドに居住したが、1905年にアメリカ合衆国の市民権を取得し、1909年に米国に戻った。1911年『秘密の花園』(The Secret Garden)を発表するが、生前のうちは反響は大きくなかった。1915年に『消えた王子』を発表。
ニューヨーク州プランドーム(Plandome)で余生を送り、同地にて死去した。
2024年2月29日閲覧
彼女の主な作品はこれだ。
『心とダイヤモンド』( Hearts and Diamonds) 1868年『ゴーディズ・レディース・ブック』(Godey's Lady's Book)において
『小公子』( Little Lord Fauntleroy )1886年
1888年『セアラ・クルー』(Sara Crewe)『小公女』1905年 ( A Little Princess )
『秘密の花園』(The Secret Garden)1911年
『消えた王子』1915年
※太字は有名な作品
名言
主にこれらのサイトや本を使用していきたい。
これ見よがしのしぐさをするコマドリはどかわいらしくうっとりさせてくれるものはありません。そしてコマドリたちはほとんどいつもそんなしぐさをしているのです。
光文社版は
気取ってさえずるコマドリほど愛らしく美しいものはないーしかも、コマドリはいつだって気取ってさえずる小鳥なのだ。
何があっても希望を失わない
自分自身を信じる
夢は実現されることの芽生えです。
一つ目は『秘密の花園』のある一場面だ。これは、主人公であるメアリが灼熱の気候であるインドから、寒冷の気候であるイギリスのヨークシャーへ引っ越してきた後に起こった出来事の一つである。それは、秘密の花園を探し出すという場面だ。そこでメアリがコマドリに対して感じたことを述べている名言となる。
コマドリについて少し調べるとこのようなことが書かれていた。
全長14cm。オスメスともよく似た色彩をしています。日本では夏鳥で、ほぼ全国の山地の森林にすんでいます。オレンジ色が鮮やかです。スズメくらいの大きさなのに、「ヒンカラカラカラカラ・・・」と、おどろくほど力強くうたいます。この声が馬のいななきに似ているところから駒鳥(コマドリ)の名がつきました。渓流に近いところにいることが多いので、瀬音の中にひびく声を聞くと、いっそう趣きが深いものがあります。一沢一駒といわれることが多いので、渓流にすんでいてなわばりをしっかり持っていることがわかります。
2024年3月7日閲覧
コマドリ|日本の鳥百科|サントリーの愛鳥活動
縄張りというコマドリの存在と秘密の花園の閉鎖された空間がリンクしてくるだろう。
秘密の花園の護衛隊かの如くさえずるコマドリはバッキンガム宮殿の衛兵かの如く美しいということだろうか。
二つ目、三つ目は『小公女』においてしばし得られる教訓といったところだろうか。
『小公女』のあらすじを簡単にまとめると主人公のセーラ・クルーという少女がいた。
そして寄宿学校でフランス語等様々な教育を受けて教師たちからも特別扱いされていた。
しかし、あることをきっかけにセアラの生活が没落してしまう。その没落した生活をのりこえるところで待っていたものは…といったところだ。
このように人生においてうまくいかなくても希望を失わず自分自身を信じればきっと明るい未来が待っているということだろう。
私もこの物語を読んだときセーラの逆境に追い込まれながらも強く、信念を持った生き方を見習っていきたいと感じた。
最後の名言は彼女の全体的な作品から読み取れるメッセージといったところだろう。
これらの作品に共通することは希望や自己実現、夢の実現の信念が含まれている。
もし、自分に自信がなくなってしまったときにこれらの物語を読めば、それぞれの主人公の生き様を見て元気をもらえることだろう。
若松賤子について
若松賤子は『小公子』という物語を1890年に紹介した。
そして日本で初めての少年少女のためのキリスト教文学を紹介した作家兼翻訳家である。
彼女の生涯をまとめていきたい。
1864年3月1日に、会津藩藩士松川勝次郎正義の長女として[1]、会津藩城下の阿弥陀町(現・会津若松市宮町)に生まれた。本名は松川甲子(かし)であり、『甲子』の名は誕生年の干支に因む。
甲子が1歳のとき父正義は隠密となり、1868年(明治元年)の戊辰戦争は父不在の間、母と甲子と妹美也(0歳)だけで過酷な状況に耐えた。なお、甲子の母に関しては詳しいことは分かっていない。父勝次郎正義は翌年、藩の移封先、斗南(現・むつ市)へと去り、そこで行方不明となる。また、母は1870年(明治3年)に過労がたたり、会津で28歳の若さで病気により没した。
1872年(明治3年)、6歳の甲子は若松に来ていた親戚の横浜の織物商・山城屋和助の番頭大川甚兵衛に見込まれて養女となる[1]。しかし、方言も土地も何もかも違う新天地で塞ぎ込みがちになってしまったため、養母の勧めもあり1871年(明治4年)プロテスタントの宣教師メアリー・エディ・キダー(Mary E. Kidder)の英語塾(のちのフェリス女学院)に入塾し、アメリカ式の教育を受けた[1]。そして1877年(明治10年)13歳の時、日本基督公会(のちの日本キリスト教会横浜海岸教会)で稲垣信牧師より受洗した。
1882年6月29日(明治15年)、18歳になった甲子はフェリス和英女学校(旧英語塾)の高等科第一回生として卒業し、校長の強い要望もあり、母校の教師として教壇に立った[1]。この頃に名乗った『島田』姓は、父の隠密時代の仮の姓という。
1883年(明治16年)、養父が亡くなる。養父は1841年4月のフェリス増改築の落成式で女性の社会的地位向上や女子教育の必要性などを説くなど、フェミニスト運動に先駆けた活動を精力的に行っていた。
1885年(明治18年)、上京していた勝次郎正義のもとへ復籍した。既に肺結核を病んでいた。
フェリスに講演に来た巌本善治と知り合い、彼の勧めもあり1886年(明治19年)、彼の主宰の『女学雑誌』に、紀行文『旧き都のつと』と詩『木村鐙子を弔ふ英詩』を若松賤子名で掲載した。若松は故郷の名であり、賤子は『神のしもべ』の意という。他にしづ・賤・某女・賤の女、などのペンネームも用いた。『甲子』も『嘉志子』と書いた。
1889年(明治22年)25歳の時、巌本と横浜海岸教会で結婚し、フェリスを退いて善治の『明治女学校』で教鞭を執った。この時結婚式で夫に送ったアリス・ケアリーの詩「The Bridal Veil」(米,1822)は男女平等を前提とした詩である。夫妻は後に清子・荘民・民子の3人の子を授かることになる。
50余篇の記事を女学雑誌に載せ、特に1890年(明治13年)から翌々年にかけて同誌に連載した翻訳小説『小公子』は森田思軒や坪内逍遥に激賞され、長く少年層に読み継がれることになった。加えて、本作は言文一致体という観点からも軽んじることはできない。
1894年(明治27年)からは、英文誌『The Japan Evangelist』(日本伝導新報)の婦人欄と児童欄を担当し、日本の行事や習慣の紹介を70余篇掲載する。
家事と育児と執筆の多忙な中で、甲子の結核の病状は進行していく[1]。1896年(明治29年)2月10日、明治女学校が炎上した5日後に、校長舎からの避難により病状が悪化し[1]、麹町区下六番町の仮寓において肺疾患に心臓麻痺を併発して死去した[1][4]。享年31歳。遺体は、染井墓地に葬られた[2]。墓碑には若松の遺言にしたがい、「賤子」の二字のみ刻まれている[2]。
樋口一葉が若松に贈った哀悼歌[2]
とはばやと思ひしことは空しくて今日のなげきに逢はんとやみし
(その人の許を訪ねてお目に掛かりたいという願いは実現せず、今日の嘆きに遭遇することになろうとは予想だにしなかった)
経歴を見ていくとフェミニストとしても活動していた。明治時代は女性が物を発表することが危険な時代とされてきた。
このような風潮であっても彼女は作品を発表し続けた。
まさに、時代の逆境に追われても心を折れなかったセーラ・クルーのような女性だと感じた。
フランシスバーネットという薔薇
フランシスバーネットという薔薇がある。
![](https://assets.st-note.com/img/1709812437704-uOn1Y7b1SP.jpg?width=1200)
香りは中香で開花性は繰り返し咲く。
花もちはよい。
フランシスバーネットの本
秘密の花園の英語版
日本語版
小公女日本語版
英語版
小公子日本語版
英語版
それでは
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