鉄眼禅師 仮字法語 第二章 色
鉄眼禅師 仮字法語
鉄眼禅師は、江戸時代に一切経を多大な辛苦の末に出版した人物。
はじめ浄土真宗を学び、のちに黄檗宗の禅僧となった。
『第二章 色』
【二の一】
第一に、色というは、我この身なり。また世界の天地草木にいたるまで、形のあり、色のある物はみな、この色のうちなり。楞厳に、一切衆生無始よりこのかた、己にまよいて、物として、本心を失いて、物のために転ぜらる、といえり。
第一に、色というのは、身体のこと。天地草木、などなど形あるもののこと。
楞厳経によれば、「世間の人々は、物のために、本来の心を失い、迷って、さまようと」と説かれている。
【二の二】
この意(こころ)は、一切万法はみな法身真如の体なる事を知らずして、かえって天地の中の万物と思いて、その万物の境界にまよいて、物のために、わが心を転ぜられて、さまざまの妄想を起こすという事なり。
この本意は、すべての生き物は本来、仏の心をもっているのを知らないで、この世界で魂がある生き物と見て、迷いの世の中でさまよい、物のために、心を正しく見ないで、さまざまな妄想を起こすということ。
【二の三】
また古人、法身は形殻のうちにかくるといえり。形殻とはこの身なり。この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは、法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり。
昔の人は、真理そのもの(法身)は身体の形に隠れているという。身体の形とは、その身体のこと、身体はもともと真理そのものであるのだが、真理そのものと、しらないで私の身体と思って、私の身体に迷い、貪り、怒り、こだわって、煩悩をつくり、悩み、地獄に沈む。
【二の四】
本より法身の如来なるを、まよいて万物と思い、またはわが身と思うには、二重のまよいあり。
本来は真理そのものであるのだが、まよって物質だけなのだと、自分の身体なのだと、二重にまよっている。
【二の五】
まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。涙よだれ血などは水なり。あたたかなるは火なり。出入の息と、うごきはたらくは風なり。この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。
かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。
かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。
まず第一のまよいとは、身体は地水火風の四大を、仮にあつめて、出来上がったものなのである。身体の皮肉筋骨のたぐいは土である。涙よだれ血などは水である。
あたたかいのは火である。出入の息と、動き、働きは風である。この地水火風を以外は、私の身体ではない。
白骨を私の身体と思って、遠い将来でも今現在でも、しゃれこうべに支配されて、地獄の業を積んで、三途の川に沈むのは、おろかにあさましきことではないか。
人は地水火風からできている、仮にあつめて出来上がったものと知らないで、私の身体と思って、千万年も、死なないと思い、私の身体と執着する。
これ第一の、凡夫のまよい。
【二の六】
さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、執着の心なし。かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。
かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。
かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、いまだ夢にも見ず。
これまた二乗の、一重のまよいなり。
さきの凡夫のまよいとともには二重なり。
二乗は法身にまようこと一重。
凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。
さて二乗(小乗仏教徒)は、凡夫よりも、智恵かしこい、身体は地水火風を仮にあつめて出来上がったものと、正しく見ているが、身体をただの白骨のように見て、身体に少しも、執着しない。この身体のために、おごり高ぶりもなく、自我をあるともいわず、貪り、怒りをもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。
二乗の人は、このように悟りはひらけているが、この身体が真理そのものであるとはしらず、これにより、世尊は小乗といって大いにきらわれた。この身体が真理そのものであるとは悟っていないから、二乗の智恵では、仏が心の内で悟ったことや菩薩の境地は、夢にも見ない。
これもまた二乗の、一重のまよいである。
凡夫(一般の人々)のまよいと合わせると二重となる。
二乗は、この身体が真理そのものであるとまようこと一重。
凡夫はこの身体が真理そのものであることにまよい、二乗の悟りにもまようので、二重のまよいとなる。
【二の七】
菩薩は、凡夫と二乗との、二重のまよいをこえて、この身をすなわち、法身如来と見たまう。これを心経には、色即是空、空即是色と説きたまえり。
色というはこの身なり。空というは真空、真空は法身、法身は如来のことなり。
さてはこの身すなわち法身、法身すなわちこの身という意なり。
二乗は地水火風が、もともと知らずして、地水火風は、非情の物なりと思えり。
菩薩は、凡夫と二乗との、二重のまよいをこえて、この身体が真理そのものであると見る。これを般若心経では、「色即是空、空即是色」と説かれた。
色というはこの身体のこと。
空というは真実の空、真空の空は、身体が真理そのものである、それは如来のことをいう。
これは、この身体は真理そのものである、という意味。
二乗は地水火風が、もともと身体が真理そのものであると知らずに、草木や土石のような物と思っている。
【二の八】
菩薩の眼にて見たまう時は、地水火風、みな法身の真体なり。この故に楞厳には、性色真空、真空性色と説きたまえり。
色というは地の事なり。性というは、この地は本より、法身の体なるゆえに性色という。
性色なるゆえに、すなわち真空なり。
また同じ経に、水を性水真空、真空性水ととき、火を性火真空、真空性火ととき、風を性風真空、真空性風邪と説たまえり。
これもはじめの地のごとく、水すなわち法身、法身すなわち水、火すなわち法身、法身すなわち火、風すなわち法身、法身すなわち風という意なり。
かくのごとくなれば、地水火風は、もとより地水火風にあらず、法身真如の妙体なるを、二乗と凡夫とは、まよいて地水火風と思えり。
菩薩の眼で見ると、地水火風は真理そのものであると見る。楞厳経には、「性色真空、真空性色」と説かれている。
色というのは地のこと。性というは、この地は本来、真理の本性であるので性色という。
性色であるから、それは真実の空である。
また同じ楞厳経に、「水を性水真空、真空性水」ととき、火を性火真空、真空性火ととき、風を性風真空、真空性風邪と説かれた。
これもはじめの地のように、水は真理そのもので、真理そのものは水、火は真理そのもので、真理そのものは火、風は真理そのもので、真理そのものは風という意味。
こういうことであるから、地水火風は、もともとただの地水火風ではなく、身体が真理そのものであるのに、二乗と凡夫は、まよって地水火風と思っている。
【二の九】
もし地水火風、本より仏なる事をさとりぬれば、わがこの身、はじめより法身なるのみにあらず。天地虚空、森羅万象にいたるまで、みなことごとく法身の妙体なり。
このさとりのひらけし時を、諸法実相ともいい、草木国土悉皆成仏ともいえり。
もし地水火風、本来は仏である事を悟ってしまえば、この身体が、はじめから真理そのものであるだけでなく。天地虚空、森羅万象など、すべてが真理そのものである。
この悟りがひらいたとき、諸法実相ともいい、草木国土ことごとく成仏ともいう。
【二の十】
草木国土のみにあらず、虚空にいたるまで、法身の体なるを、まよいて虚空とおもえり。
このさとりのひらくる時、虚空とおもいしもきえて、万法一如のさとりとなる。
このだから、楞厳経には一人真を発して、源に帰すれば、十方の虚空一時に消磒すととき、円覚経には、無辺の虚空、覚に顕発せらるともいえり。禅家には、大地平沈し、虚空分砕すといえり。また極楽を黄金の地とときたまうも、この事を凡夫のために、名をかえて説かれたり。
草木国土だけでなく、空っぽまで、真理そのものであるのに、まよって空っぽと思っている。この悟りがひらけたとき、空っぽとおもっていた迷いもきえて、差別もそのまま平等となり悟りとなる。
これだから、楞厳経には「一人真を発して、源に帰れば、十方の空っぽ一時に消滅す」ととき、円覚経には、「無限の空っぽ、覚者によって存在を明らかにされる」禅家では、「大地がなくなり、空っぽも粉々に砕ける。」また極楽を黄金の地と説かれた、それは、この事を凡夫のために、名をかえて説かれたののである。
【二の十一】
このさとりをひらきて見れば、わが身はわが身ながら、本より法身の体にして、生まれたるにもあらず。生れざる身なれば、死するという事もなし。これを不生不滅といい、または無量寿仏という。生ずると見、死すると見る、これをまよいの夢と名づく。
この悟りをひらいて見れば、わが身体はわが身体であるままに、本来真理そのものはである体にして、新しく生まれたのでもない。生れない身であるから、死ぬということもない。これを不生不滅といい、または寿命が計り知れない仏という。
生まれるとみなし、死ぬとみなす、これをまよいの夢と名づける。
【二の十二】
わが身すでにそのごとくなれば、人の身もそのごとし。人間そのごとくなれば、鳥類畜類、草木土石まで、みなしからずという事なし。
水鳥樹林、念仏念法、念僧の声を出すと、弥陀経にとき、また十方の諸仏、広長の舌相を三千大千世界に出して、法をときたまうと、のたまいしも、この時のことなり。法華経の中に、諸法は本よりこのかた、つねにおのずから寂滅の相といい、または、法は法位に住して、世間の相は常住なりと、とかれたるも、みなこのさとりのひらけたるをのべられしところなり。
よくよく坐禅工夫して、かかるさとりにかない、色蘊のまよいをこえて、法身実相の体にかなうべし。
わが身体はすでに書いたように、人の身もおなじ。人間そのようであるから、鳥類畜類、草木土石まで、みなそうでないものはない。
水鳥樹林、念仏念法、念僧の声を出すと、弥陀経にとかれ、また十方の諸仏、広く長い舌相を三千大千世界に出して、法をとかれる、というも、この時のこと。法華経の中に、「諸法は本から、つねに自然に寂滅の相(煩悩消えた静かな状態)」と言い、または、法は法位に住して「法は法のままにある、世間は常住」だと、とかれたのも、この悟りのひらけたのを言われた箇所である。
よくよく坐禅工夫して、悟りをひらき、色蘊のまよいをこえて、身体は真理そのものとめざめるべき。
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