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鉄眼禅師 仮字法語 第三章 受

鉄眼禅師 仮字法語

『第三章 受』
【三の一】

第二に、受というは、納領を義とすとて、ものをうけおさむることなり。これは眼耳鼻舌身の五根に、外の六塵の境界を、うけおさむるをいう。眼には色をうけ、耳には声をうけ、鼻には香をうけ、舌には味(あじわい)をうけ、身には触をうけおさむるなり。

第二に、受というは、納領(納め受ける)という意味、ものをうけおさめること。これは眼耳鼻舌身(感覚器官)という五根に、色声味香触法という六境を、うけおさめることをいう。眼には色をうけ、耳には声をうけ、鼻には香をうけ、舌には味をうけ、身には触をうけおさめる。

【三の二】
この受というには、苦、楽、捨の三受という事あり。
まず苦受というは、眼耳鼻舌身の上に、このまざる苦しき事をうくるをいう。
楽受とは、眼耳鼻舌身において、こころよくたのしみなる事をうくるをいう。
捨受とは、苦にもあらず、楽にもあらざる事をうくるをいう。たとえば、道を行くに、手をふりて行くようなる事は、苦にても楽にてもなし。そのごとく、目に見ても何ともなく、耳にきき、口にあじわいても何ともなきようの事をみな捨受という。

この受というには、苦、楽、捨の三受がある。
苦受とは、眼耳鼻舌身の上に、好まない苦しいことを受けるということ。
楽受とは、眼耳鼻舌身において、こころよく楽しいことを受けるということ。
捨受とは、苦でもなく、楽でもないことを受けるということ。
たとえば、道を行くのに、手をふって行くようなことは、苦でも楽でもないように、目に見ても何ともなく、耳にきき、口にあじわい、何ともないようなことを捨受という。

【三の三】
衆生は、この苦受楽受にまよいてくるしき事は目にも見じ、耳にもきかじと思い、ただ楽なる事を、目にも見、耳にもきき、鼻にもかぎ、口にもあじわい、身にもふれなんとばかりおもう故に、人をなやまし、わが身をくるしめ、ぬすみもし、偽りをもいいて、物をむさぼり、魚鳥の命をもたち、世界のさまたげともなる事をたくみて、日夜に地獄の業をつくるなり。
これは楽をうけんと思う一念のまよいの意より、無量のくるしみを生ずるなり。
世上のぬすみをするものの、酒をのみ、さかなをくい、婬欲にふけりて、遊女などを愛し、衣装までに綺羅をつくさんと思う、わずかの楽しみをむさぼる心より、ぬすみをし、いつわりをいい、ついにその悪あらわれて、牢獄にいり、せめにあい、その身命をほろぼすは、すこしの楽をもとむる心よりおこれり。

生物は、この苦受楽受にまよって苦しいことは目にも見ない、耳にもきかないと思い、ただ楽をあたえることだけを、目にも見、耳にもきき、鼻にもかぎ、口にもあじわい、身にも触れることだけを考える、人をなやまし、わが身をくるしめ、ぬすみもし、偽りをもいう、物をむさぼり、魚鳥の命をもたち、世界のさまたげともなる事をたくらんで、日夜に地獄の業をつくる。
これは楽を受けると思うわずかな時間のまよいの意味、はかり知れないくるしみを生ずる。
世の中のぬすみをする者は、酒をのみ、さかなをくい、婬欲にふけり、遊女などを愛し、衣服まで贅沢をつくそうと思う、わずかな楽しみをむさぼる心で、ぬすみをし、いつわりをいい、ついにその悪ばれて、牢獄にはり、せめにあい、その身命をほろぼすのは、すこしの楽をもとめる心からおこる。

【三の四】
もとめあるはみな苦なりと、古人のいえるは、この意なり。
たとえば、夏の虫の、火に入るがごとく、淵の魚の餌をむさぼるに似たり。露ばかりのむさぼりもとむる心ゆえに、あたら身命をほろぼすなり。

もとめてもあるのはみな苦と、むかしが人がいうのは、この意味。
たとえば、夏の虫が、火に入るように、淵の魚が餌をむさぼるのに似ている。露(つゆ)ほどのむさぼりをもとめる心のために、みすみす身命をほろぼす。

【三の五】
一百三十五の地獄の苦、三品九類の餓鬼の飢え、披毛戴角の畜生のすがた、弓箭刀杖の修羅のありさま、一つとして、むさぼりもとむる心よりおこらざるくるしみはなし。
一滴のあまき楽をうけんとて、万劫のからき苦をうくる、あさましき迷いにあらずや。

一百三十五の地獄の苦、すべての生物それぞれの餓鬼の飢え、毛に覆われ角がある畜生のすがた、弓・矢・刀・棒で戦う修羅のありさま、一つとして、むさぼりをもとめる心から、おこらないくるしみはない。
一滴のあまい楽を受けようと、ながいながい苦を受ける、あさましい迷いではないか。

【三の六】
またこの苦と思い、楽とおもう事は、本より苦も苦にてはなく、楽も楽にてはなけれども、まよいてみずから楽とおもえり。
そのゆえはいかにというに、とび(鳶)からす(烏)、犬・野干(やかん 狐のこと)などは、牛馬などの死して、くさるるを見るか、また人などの死して、ただるるを見ては、これをたぐいもなきものぞと思う故に、まず眼にこれを見てよろこび、鼻にかぎ、口にあじわい、手足につかみては、ますますよろこびて、これを第一の楽しみと思えり。
むさくけがらわしき事かぎりなし。

もしかかるくされものを人にしいてくわしめば、そのくるしき事たぐいなかるべし。
人にくわしむればかほどにくるしきくされものを、とびからすはかえって楽とおもいて、むさぼりくらふ。これ楽にてはあらざれども、その心おろかにいやしくして、苦を楽ぞと思えるなり。

この苦と思い、楽とおもうことは、苦は本当の苦ではなく、楽も本当の楽ではないのだけれど、まよっているので楽とおもう。
その理由はというと、とび(鳶)からす(烏)、犬・野干(やかん 狐のこと)などは、牛馬などの死んで、くさった死骸を見るか、また人などの死んで、ただれた死骸を見ては、これをなにとりうまそうなものと思う、眼にこれを見てよろこび、鼻にかぎ、口にあじわい、手足につかんで、ますますよろこび、これを第一の楽しみと思う。
人から見れば、むさくけがらわしいと感じる。
もしこのような腐ったものを人に無理にくわせれば、その苦しさは例えようもない。
人にくわせれば苦しさをあたえる腐ったものでも、とびからすはかえって楽とおもい、喜んでくう。これ楽にではないのだけれど、その心はおろかでいやしので、苦を楽と思う。

【三の七】 
人間の楽とおもう事も、そのごとし。おろかなる心ゆえに、妻子におぼれ、財宝にまよい、魚鳥をくうて、たのしみとす。仏菩薩よりこれを見れば、人の上より、とびからすを見るよりも、なおあさまし。
これをもっておしはかれば、まどえる人の楽とおもうは、苦をもって、楽とおもえるなり。

人間の楽とおもうことも、これと変わらない。おろかな心のために、妻子におぼれ、財宝にまよい、魚鳥をくうのを、たのしみとする。仏や菩薩から見れば、人の世から、とびからすを見るよりも、あさましい。
これをもっておしはかれば、まよい目覚めていない人が楽とおもうのは、苦であるのに、楽とおもっているのである

【三の八】
また人の大罪などをなせし故に、おおやけのいましめにて、その罪人の子やつまを、目の前にてころしつつ、料理てこれをくわしめば、目に見るも、口にくうも、さこそはくるしかるべき。
人の魚鳥をくうも、そのごとし。さとりの眼より、てらし見れば、魚鳥も法身如来にして、もとより諸仏と一体なり。
また一切衆生を、諸仏菩薩は同体の大悲故に、一子のごとく見たまえり。

また人が大罪などを犯したから、おおやけのいましめのために、その罪人の子や妻を、目の前でころして、料理してくわせれば、目に見るのも、口にくうのも、どんなに苦しいしいだろう。
人が魚鳥をくうのも、それと変わらない。さとりの眼より、このことを見れば、魚鳥も本来は真理そのものであり、もともと諸仏は一体である。
 また一切の生きとし生けるものを、仏や菩薩はご自分と同体とみなす大悲の故に、ただ一人の子のように見ていらっしゃる。

【三の九】
かかる一切衆生なるを、まよえる凡夫のあさましさは、よきさかなよとて、肉をさき、骨をくだきて、のみくうて、大いによろこぶありさまを、仏の眼(みまなこ)より見たまえば、さながら鬼にことならず。
わが子のくびをきり、肉をさきて、目に見てもよろこび、鼻にかぎ、口にあじわいて、かえってこれをよろこびとす。これを顛倒の凡夫という。

このように生きとし生けるものを、まよえる凡夫のあさましいことは、これはよいさかなと、肉をさき、骨をくだいて、のみくうて、大いによろこぶそのありさまは、仏の眼(まなこ)より見たばあい、まるで鬼にほかならない。
わが子の首をきり、肉をさいて、目に見てもよろこび、鼻にかぎ、口にあじわい、かえってこれをよろこびとする。
これを顛倒(さかさま)の凡夫という。

【三の十】
かかるしわざを楽とおもえるは、まことは楽にはあらず。これ大いなるくるしみなり。
かくのごとく苦と楽との二つの間にまようをば、第二の受蘊と名づけたり。

このような行いを楽とおもえるのは、ほんとうは楽ではない。これ大いなる苦しみである。このように苦と楽との二つの間にまようのを、第二の受蘊と名づけたのである。

【三の十一】
三界流浪の凡夫のならいは、すべてこの苦楽の間をのがるることあたわず。
そのうえは、さく花を見て楽しみと思えば、ちる時はやがて苦なり。出る月を見てたのしめば、入る山の端はまたかなし。逢う事をよろこべば、わかれはかえってうれいなり。
さかえたるをたのしむ人は、おとろうる時またくるしむ。まずしき人はなきをくるしむ。
富める人はあるになやまさる。へつらうも苦しみなれば、おごるもげには苦しきわざ、恋しきも苦なれば、うらめしきもまた苦なり。

大いなるかな苦楽の二受。三界一切の衆生、その中におぼれて、ついに出る事あたわず。

三界を生まれ変わる流浪の凡夫というのは、すべてこの苦楽の間をのがれることはできない。
その理由は、咲く花を見て楽しみと思うなら、ちる時はやがて苦になる。出る月を見てたのしめば、山の端(は)に入る月はかなしい。逢う事をよろこべば、わかれはかえってうれいとなる。富裕をたのしむ人は、おとろえる時はくるしむ。まずしき人はないことをくるしむ。富める人はあることになやまされる。へつらうも苦しみ、おごるのも苦しいわざ、恋しきも苦ならば、うらめしいのもまた苦である。
なんと大いなることか、苦楽の二受は。
三界(欲界・色界・無色界)一切の生物は、その中におぼれて、ついにそこを出ることはできない。

【三の十二】
生ずるを生苦と名づけ、年よるを老苦という。やまいは病苦にして、死するは死苦なり。
男子にも苦あれば、女人にも苦多し。農人にも苦なれば、諸職もこれ苦なり。奉公も苦なれば、牢人はなお苦なり。臣下も苦しければ、君王もまぬかれがたし。在家のみくるしきにあらず、出家もまたくるし。

この世に生きるのを生苦と名づけ、年を取るのを老苦という。やまいは病苦であり、死ぬのを死苦という。男子にも苦あるが、女人にも苦多い。農民の生活も苦であり、職人の仕事もこれ苦。奉公も苦だし、牢人はさらに苦であり。家来も苦しければ、王も苦をまぬがれない。在家の人のみが苦しいのではない、出家も苦しい。

【三の十三】
その中にすこしくるしみのかろくして、やすめるを、まよいて楽と思えるなり。
たとえば、おもき荷物をになえる人の、おろして楽と思うがごとし。またつよくわずらいし人の、癒えて楽というがごとし。別に楽というべき事はなけれども、苦のやすまりたるを楽と思えり。
また酒をおみ、さかなをくい、婬欲などにふけりて、これを楽と思えるは、たとえば、かゆきかさをわずらう人の、火にてあぶり、湯にてあらいて、これを楽と思うがごとし。
かゆきはいたきよりはましなれども、かゆきもげには苦しみなり。あぶるかあらうかして、これを楽と思えるは、苦を楽と思えるなり。
まことはかさをかかぬ人の、あぶりてこころよしと思うさかさまの楽しみはかつてなきこそ、げには楽なりけれど。
このことわりをよくさとりて苦楽の二つをこえぬれば、第二の受蘊のまよいをはなれて、涅槃の大楽にいたるなり。

そうした状況の中で、すこしでもくるしみがかるくなる、やすらいでいるのを、まよって楽と思いこんでいる。
たとえば、おもい荷物をになっている人が、おろして楽と思っているようなもの。
また大きい病を患っている人の、病が癒えて楽というようなこと。
別に楽というべきことはないけれども、苦のやすまりを楽と思っている。
また酒をのみ、さかなをくい、婬欲などにふけり、これを楽と思う、たとえば、かゆいできものをわずらう人が、火であぶり、湯てあらい、これを楽と思うようなもの。
かゆいのはいたいのよりはましではあるが、かゆいのも実際には苦しみである。
できものをあぶるかあらうかして、これを楽と思えるのは、苦を楽と思いこんでいるだけ。
本当はできものを患っていない人は、あぶってこころよく思うさかさまの楽しみはまったくない、それこそが楽なのだ。
このことわりをよくさとって苦楽の二つをこえれば、第二の受蘊のまよいをはなれれば、涅槃の大楽へと渡れる。

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