瑞龍鉄眼禅師 仮字法語 第五章 行
瑞龍鉄眼禅師 『仮字法語』
『第五章 行』
【五の一】
第四に、行というは、行は遷流を義とすとて、わが心の生滅して、うつりかわるをいうなり。
こころに妄想のおもいあれば、その心刹那もとどまる事なくして、しきりにうつりかわるなり。
たとえば水のながれて、しばらくもとどまらざるがごとく、燈火の刹那刹那にきえて、またたきの間にもとどまらざるに似たり。
人々の朝(あした)より夕べにいたるまでとやかくと思いつづけて、うつりかわるところを、意(こころ)をつけてよく見るべし。
さながら電光石火のごとく、刹那刹那にうつりかわりて、とどまる事はさらになし。
第四に、行というのは、行は「うつりかわる」という意味、心は生滅して、うつりかわるとういこと。
こころに妄想のおもいがあるから、その一瞬もとどまることがなく、繰り返しうつりかわる。
たとえば水がながれて、一瞬もとどまらないように、燈火が一瞬一瞬にきえて、またたきの間もとどまらないのに似でいる。
人々の朝(あした)より夕べになるまで、とやかくと思いつづけても、心はうつりかわるところを、よく見るように。
ちょうど電光石火のように、一瞬一瞬にうつりかわり、とどまることは全くない。
【五の二】
一切有為のまよいの法はみなこれ行蘊の遷流なれば、無常にして念々にうつり、生滅時々におかして、しばらくもとどまらず。
たといあらき生滅の心はおろかなる凡夫の心にもしらるれども、微細の生滅の念々にうつりかわる事は、凡夫二乗の眼(まなこ)に見えず。
その心にかくのごとく生滅あるゆえに、心より生ずる諸法なれば万法もまたうつると見る。
因縁によりつくられた(この世界)まよいの眼にうつる存在はみな行蘊のうつりかわる姿であるから、無常なもので一瞬一瞬にうつり、時々刻々に生滅して、少しもとどまることはない。
この生滅する心の内、大まかな心はおろかな凡夫の心にもしられるが、微細なこころの生滅が一瞬一瞬にうつりかわることは、凡夫や二乗の眼(まなこ)には見えない。
凡夫や二乗の心にもこのような生滅があり、あらゆる存在は、心から生じる現象であるから、やはりうつると見える。
【五の三】
円覚経に雲はやければ月はこび、船ゆけば岸うつると説きたまえるはこの意(こころ)なり。
雲のゆく事はやければ、月のうつりはこぶがごとく、舟の行くこと速やかなれば、岸も山もうつるに似たり。
これ山うつりうごくにはあらず、我のりたる舟の行く故なり。
わが心の雲はやき故に真如の月はこぶと見る。
諸法は本より実相にして常におのずから寂滅の相なれども、三世にうつりかわると見、四時のとどまらざるしなを見るは、みな行蘊のまよいなり。
円覚経に「雲はやければ月はこび、船ゆけば岸うつる」と説いている、それはこの意味である。
雲のゆくのがはやければ、月のうつりすすむように見え、舟の行くのが速やければ、岸も山もうつり動くように見える。
これは山がうつり動くのではなく、自分の乗っている舟がうごいているだけ。
わが心のように雲がはやく動くから月は動きすすむように見える。
もろもろの存在は本来ありのままの姿であって、同時に悟りの姿を示しているが、私たちは三世(過去・現在・未来)にうつりかわるように見て、四時(春夏秋冬)のうつりかわる姿を見るのは、行蘊のまよいによる
【五の四】
涅槃経に、諸行無常是生滅法と、説きとまえるはこの事なり。
諸行とは、すなわち行蘊なり。
行蘊の生滅遷流ゆえに、一切万法うつりかわりて刹那もとどまる事なきをいう。
この諸行の有為生滅のまよい、ことごとく滅しおわらざれば、寂滅無為の涅槃の大楽あらわれず、諸行の生滅、滅しおわる時、寂滅の法現前して、万法一如、諸法実相の涅槃の妙楽現前するを、生滅滅已、寂滅為楽と説きたまえり。
涅槃経に、「行無常是生滅法」と、説かれている。
諸行とは、行蘊のことである。
行蘊は生滅しうつりかわるので、一切の存在はうつりかわり一瞬もとどまることはないというのである。
生滅しうつりかわるということのまよいを、ことごとく滅してしまわなければ、寂滅無為と言われる悟りの大楽あらわれない、諸行の生滅が滅しおわる時、悟りがあらわれて、「万法一如、諸法実相」と説かれる悟りがあらわれる、そのことを「生滅滅已、寂滅為楽」と説かれている」。
【五の五】
かくのごとく、わが身わが心もまた一切の万法も、常住法身の体にして、本より生滅はなきものなるを、この行蘊のまよい故に、真如の体を見つけずして、三界生滅の万法と思えり。
行蘊のまよいをこえぬれば、まずわが心常住にして、うつりかわる事なし。
わが心うつりかわらざれば、諸法もまた常住なり。
さればわが本心のうつりかわらざる事は、たとえば鏡の本体に似たり。
明らかなる鏡の中に終日(ひねもす)かげのうつるを見れば、天をうつし、地をうつし、花をうつし、柳をうつし、人間をうつし、鳥獣をうつし、さまざまの色かわり、しなことなりて、刹那もとどまらざるに似たれども、その鏡の本体は、鳥獣にもあらず、人間にもあらず、柳にもあらず、花にもあらず、地にもあらず、天にもあらず、ただ明々として、くもりなき鏡の全体なり。
このように、自分の身も自分の心もまた一切の万法も、常住法身の体で、本当は生滅はないのに、この行蘊のまよいがあるから、あるがままの体を見つけられず、三界で生滅を繰り返すと思う。
行蘊のまよいをこえれば、まず自分の心は常住であり、うつりかわることはない。
自分の心がうつりかわることがなければ、もろもろも存在も常住である。
自分の本心のうつりかわらないことは、たとえば鏡の本体に、にている。
よく映る鏡の中に終日(ひねもす)自分の姿がうつるのを見れば、天をうつし、地をうつし、花をうつし、柳をうつし、人間をうつし、鳥獣をうつし、さまざまの色がかわり、種類がかわっても、一瞬もとどまらないのに、にている、その鏡の本体は、鳥獣でもなく、人間でもなく、柳でもない、花でもなく、地でもない、天でもなく、ただ明らかに、くもりない鏡そのものである。
【五の六】
わが本心の万法にうつしてらして、その差別にもあずからず、生滅にもかつてうつらざる事を、鏡のたとえにて知りぬべし。
まよえる人は心中にうつる影のみを見て本心の鏡を見る事あたわず。
円覚経の中に六塵の縁影を、自心の相とすと説きたまうは、この事なり。
自分の本心のあらゆる存在も変化も映しだして、あらゆる存在の差別ある姿とは無関係で、生滅にもかかわらず自分の本質が変化しないことは、鏡のたとえで知ることができるだろう。
まよえる人は自分の心の中にうつる像だけを見て、本当の心を見ることができない。
円覚経の中に「六塵の縁影を、自心の相とす」と説かれているのはこのことである。
【五の七】
さてまた鏡にうつるもろもろのかげは全体虚妄にして、なきものなれば、その影をはらいすてて、はじめて鏡を見んと思うは、またきわめて愚人のありさまなり。
花や柳のかげは、うつらばうつしながら、去来もなく、色香もなき、明鏡の全体をよく見るべし。
さてまた鏡にうつるもろもろの姿はすべて虚妄なもので、実在しないものであるから、その姿をはらいすてて、その後にはじめて鏡を見ようと思うのは、きわめて愚人のやること。
花や柳のかげは、うつるならばうつるままにしておいて、去るものも来ものもなく、色も香もなく、明らかな鏡そのものをよく見るべきである
【五の八】
これを法身と名づけ、真如という。
真はこれ真実にして、偽妄にあらざる事をあらわす。
如はいわく、如常にして、変易なき事を表すと、唯識論にいえるは、この真如の妙体なり。
また金剛経には、如来というは、来るところなく、また去るところなしと、説きたまうも、この法身如来の事をのべられたり。
これを法身(真理を身体としている・仏のあらわれ)と名づけ、真如(真理)という。
「真はこれ真実にして、偽妄にあらざる事をあらわす。如はいわく、如常にして、変易なき事を表」すと、唯識論に言っているのは、この真如(真理)それ自体(あらわれ)のことを言っている。
金剛経には、「如来というのは、来るところなく、また去るところなし」と、説かれている、この法身如来のことを言っている。
【五の九】
わが本心すでにそのごとくなれば、万法もまたそのごとし。
万法を天地森羅万象と見るは、これうつれる影なり。
万法の全体はこれ明鏡なり。
影にまようを凡夫といい、鏡を見るを聖人という。
たとえをとりてこれをいわば、金(こがね)にてさまざまの物のかたちをつくりたるがごとし。
その形よりこれを見れば、鬼はおそろしく仏は尊く、老いたるはかたちしわみ、若きはかおうるわし。
鶴は脛長く、鴨は足短し。
松は直く、棘(おどろ)はまがり、柳はたおやかに、花はみやびやかなり。
金(こがね)のかたよりこれを見れば、鬼もこがね、仏もこがね、男女の差別もなく、君臣の高下もなく、つるのながきも金なれば、鴨のみじかきも金なり。
花も柳も松もおどろも、ただ一体の金にして、露ばかりも差別はたてがたし。
自分の本心がすでにそのようならば、すべての存在もまたそのようである。
人はすべての存在を天地森羅万象と見のは、これは本当はうつる幻の姿なのだ。
すべての存在そのものは明らかに鏡である。
鏡にうつる姿を実在とまようのが凡夫といい、鏡を鏡と見るのを聖人という。
たとえでこれを説明するなら、金(こがね)でさまざまな物のかたちをつくったようなもの。
その形という観点からこれを見れば、鬼はおそろしく仏は尊く、老人はしわだらけ、若人はかおうるわし。
鶴は足長く、鴨は足短し。
松は直く、棘(いばら)はまがり、柳はたおやかに、花はみやびやかに見える。
金(こがね)という観点(金製品)からこれを見れば、鬼もこがね、仏もこがね、男女の差別もなく、君臣の高下もなく、鶴の長い足も金、鴨のみじかい足も金に見える。
花も柳も松も棘(いばら)も、ただの金に見え、少しのちがいもなく全て金に見える。
【五の十】
万法もまたそのごとし。
真如のかたよりこれを見れば、ただ黄金のごとくにして、毛頭も差別なし。
万法のかたよりこれを見れば、さまざまのかたちわかれたり。
衆生はそのかたちにまよう。
諸仏はその真如をさとる。
真如の体の黄金をさとれば、さまざまの差別のかたちは、あるにまかせて、ただ平等にして一味なり。
すべての存在はそのようである。
真如(真実)のかたからこれを見れば、みな同じように黄金に見え、少しのちがいもない。
存在するかたからこれを見れば、さまざまなかたちにわかれて見え。
生命は万物のかたちにまよう。
諸仏はそのかたちの真如(真理)をさとる。
黄金にたとえられる真如(真理)のかたち(それ自体の本質)をさとれば、さまざまかたちは、ただ差異があるだけであり、平等である、海水がひとつの味のように。
【五の十一】
きらうべき鬼もなく、尊むべき仏もなく、親しむべきものもなきゆえに、疎んずべき人もさらになし。
何をかきらい、何をかこのみ、誰をかそしり、誰をかほめん。
うらみもなく、ねたみもなし。
一切もろもろの煩悩は、断ずる事なけれども、おのずからたえてさらになし。
たとえば日の出でたる時、闇をのぞかんとはせざれども、その闇おのずからなきがごとし。
煩悩をのぞき、迷いを去らむとはせざれども、唯一の実相にして、迷いはおのずから不可得なり。
そのかみ、二祖これを得て、安心し、六祖これをさとりて、衣をつたう。
ここには鬼もなく、尊ぶべき仏もなく、親しむべきものもないので、うとんずべき人もまったくいない。
何かをきらい、何かをこのみ、誰かをそしり、誰かをほめる。
うらみもなく、ねたみもなし。
一切もろもろの煩悩は、わざわざ断とうとすることはない、おのずからたえてまったくなくなっている。
たとえば日の出の時、闇をのぞこうとしなくても、その闇はおのずからなくなってしまっているのに似ている。
煩悩をのぞき、迷いを取り去ろうとしなくても、そこにあるのは、唯一の実相(真理の姿)であり、迷いはいくらもとめても認知できない状態になる。
そのむかし、二祖(禅の第二継承者)これを体得して、安心の境地にたっして、六祖(禅の第六継承者)はこれをさとって、衣をさずけられた。
【五の十二】
金剛には三世不可得と説き、法華には諸法実相という。
これ表裏のことばなり。
三世不可得なるゆえに、諸法実相なり。
諸法実相なるゆえに、三世不可得なり。
妙なるかな。
如来の金言、心をとどめて見るべきなり。
また本心の生滅去来をはなれて、常住なるところをよくさとりぬれば、心中にうつるかげもまた常住不滅なり。
そのゆえいかんといえば、森羅万象の差別、古往今来の生滅のかげは、本よりこれ虚妄なる故に、来たる事なく、また去ることなく、生ずる事なく、滅する事なし。
すでに生滅去来なき時はもろもろの差別もまたある事なし。
鏡の影をもって、そのことわりを心得べし。
金剛経には「三世不可得」(過去現在未来にわたり心は生滅して実態としては把握できない)と説いている、法華経には「諸法実相」(すべての存在はありのままの真実の姿)という。
これは表裏一体のことばである。
三世不可得であるから、諸法実相となる。
諸法実相であるから、三世不可得となる。
素晴らしいこと。
如来の金言は、心にとどめてみるべきである。
また本心の生滅・去来というのをはなれて、常住というところをよくさとったならば、心の中にうつる映像も常住不滅である。
その理由はどうかというと、世界のすべてのものごとのちがいある姿も、古も今も、往来の生滅の現象も、本来は虚妄なのだから、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなし。
すでに生滅去来ない時は、もろもろの差別ある姿も存在することはない。
鏡に映る映像のたとえで、そのことわりを心得るべきである。
【五の十三】
かげのはじめてうつるを見る時、その影鏡に入り来るにあらず、はじめすでに入りきたらざる影なれば、今また出さるべきことわりなし。
影に本より出入去来なきゆえに、鏡は本より鏡ばかりにして、ついにかげになりたることなし。
影にならずして、かげをうつす鏡なれば、森羅万象歴然としてたゆる事なし。
これうつするともいいがたく、またうつさぬともいいがたし。
金(こがね)にてつくれる、いろいろのかたちの、鬼にもあらず、また仏にもあらずして、また鬼の形ともなり仏のかたちともなるがごとし。
映像がはじめて鏡にうつるのを見る時、その映像が入って来るのではない、はじめから入ってくることのなかった映像なのだから、今それが出ていくことわりはない。
映像は本来出入・去来するのではなく、鏡は本来、鏡そのものであり、鏡が映像になることはありえない。
鏡というのは、映像を映す物であり、映像と同じ物になることはない、森羅万象は歴然としてそこに存在し、絶えることはない。
これはうつすともいいがたく、またうつさないともいいがたい。
金(こがね)でつくった、いろいろのかたちの、鬼でもなく、また仏でもないのに、鬼の形となったり仏のかたちともなったりするようなものである。
【五の十四】
あるともいいがたく、なしともいいがたし。
これを如幻の万法という。
幻とは術道にて、もろもろのいきものなどを、つくりいだすをいう。
術道にて、つくりいだせるいきものなれば、あるともいいがたく、なしともいいがたし。
なきものといわんとすれば、眼前に鳥けだものとなりてとびはしる。
あるものといわんとすれば、まことの鳥けだものにはあらず。
あるいは木のきれ、手巾(てのごい)などを、術道にていきものとなしたるなり。
鏡に映る映像は、あるともいいがたく、ないともいいがい。
これを如幻の万法(すべての存在は実態がない幻)ということ。
とは幻術にて、もろもろのいきものなどを、つくりだすことをいう。
幻術で、つくりだせるいきものならば、あるともいいがたく、ないともいいがたい。
ないものと言うとすれば、眼前に鳥、けだものとなってとびはしる。
あるものと言おうとすれば、ほんものの鳥、けだものではない。
あるいは木のきれ、手ぬぐいなどを、幻術でいきものとしたものである。
【五の十五】
いまこの三界の、天地万法ならびに人々の身にいたるまでもそのごとし。
一心の本体よりこれを見ればまことに本来無一物にして、一塵をも立せざる、実際の理地なる故、諸仏もなく、衆生もなく、いにしえもなく、今もなく、天にあらず、地にあらず、自にあらず、他にあらず、法界平等一相なり。
金にてつくれるものを、金のかたより見るがごとし。
これを心真如門という。
いまこの三界(欲界・色界・無色界)の、天地やすべての存在ならびに人々の身までも、あるともいいがたく、ないともいいがたいものである。
一心(現象の根底にある心)の本体という観点からこれを見れば、本当は本来無一物(執着すべきものはない)であり、一塵をも存在しない理地(真理そのもの)なので、諸仏もなく、生命もなく、いにしえもなく、今もなく、天もなく、地もない、自分もなく、他者でもない、法界(事物の根源)平等の一つのすがたである。
金でつくったものを、金という観点から見たようなものである。
これを心真如門(心をあるがままのすがたでとらえる)という。
【五の十六】
万法のかたよりこれを見れば、天地日月位をわかち森羅万象しなことなりて、花はつねに紅(くれない)、柳はいつもみどり、火はあつく水はひややかに、風はうごき、土はしずかに、松はなおく、棘(おどろ)はまがり、鶴はしろく、烏はくろく、天はたかく、地はひくく、仏あり、衆生あり、我といい、人といい、春夏秋冬のおりおり、青黄赤白のいろいろひとつとして乱る事なし。
金(こがね)を見ずして、さまざまのすがたより見るがごとし。
これを心生滅門という。
すべての存在の観点からこれを見れば、天地日月が位をわかってそこに存在している、森羅万象の様子がそれぞれちがい、花はつねに紅(くれない)、柳はいつもみどり、火はあつく水はひややか、風はうごき、土はしずかに、松は直ぐ、棘(いばら)はまがり、鶴はしろく、鴨はくろく。天はたかく、地はひくく、仏あり、生命あり、自分といい、他人といい、春夏秋冬はおりおり、青黄赤白はいろいろひとつとして乱れることはない。
金(こがね)を同一の面を見ないで、さまざまのすがたという観点から見るようなもの。
これを心生滅門(心が展開しつつあるすがたをとらえる立場)という
【五の十七】
一切もろもろの衆生は、この万法の諸相にまどいて、目に見てはむさぼり、耳にききてはあらそい、鼻にかぎ、舌にあじわい、身にふれて、そのものごとに、貪着して、さらにこの万法の、夢幻泡影のごとく、鏡象水月のごとくにして、幻化虚妄なる事を知らず。
胎卵湿化の四生をうけ、生住異滅の四相にうつされ、五欲の境界に着して、六根の罪業をつくり、千生万劫、地獄餓鬼のほのおに身をこがし、生々世々、畜生修羅のくるしみにしずみ、あるいは人間に生ずれども、四大和合の色身を、我とおもい、六塵虚妄の縁影を、心として、生老病死念々におかし、春夏秋冬時々にうつり、みどりの髪たちまち白く、花のかんばせついにしぼみて、朝の露と消え、夕の煙とのぼる。
かかる無常転変の浮世、電光石火のわが身、しばらくもとどまることあたわず。
刹那もしずかなる事なくして、水の時々にながるるがごとく、ともし火の念々消ゆるに似たり。
これまさしく行蘊のすがたなり。
全ての生命は、この存在の諸相にまよって、目に見てはむさぼり、耳にきいてはあらそい、鼻にかぎ、舌にあじわい、身にふれて、そのものごとに、どん欲に執着して、さらにこの存在の、夢・幻・泡・影のように、鏡に映る映像の、水にうつる月のように、幻化・虚妄であることを知らないで。
胎生・卵生・湿生(ボウフラなど)・化生(天人・鬼など)の四生をうけ、生・住・異・滅という四相に輪廻転生して、五欲にとらわれた境界(世界)に執着して、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根のもたらす罪業をつくり、千生さらに長い時、地獄餓鬼のほのおに身をこがし、生々世々(いくつもの輪廻)、畜生修羅のくるしみにしずみ、あるいは人間に生れることがあっても、地・水・火・風でできたこの身体を自分と思い、色・声・香・味・触・法の六塵でできた虚妄の縁影にとらわれ、生・老・病・死が一瞬一瞬生命をおかし、春・夏・秋・冬は時々にうつり替わり、みどりの黒髪もたちまち白くなり、花の容姿はしぼみ、朝の露と消え、夕の煙とのぼる。
このような無常転変の浮世も、電光石火のわが身、一瞬もとどまることもなく。
一瞬もしずかなことはなく、水の時々にながれるように、ともし火がまたたいて一瞬で消えている。
これがまさしく行蘊のすがた。
【五の十八】
しかるに衆生の三界に流転するは、万法の幻化を知らずして、その夢幻の六塵に貪着して、十悪五逆の幻業をつくるゆえに、地獄餓鬼の幻果を受く。
わが身本より幻なれば、その心もまた幻なり。
その心すでに幻なれば、その煩悩もなまた幻なり。
煩悩本より幻なるゆえに、その悪業もみな幻なり。
悪業ことごとくげ幻なれば、三途の苦果もこれ幻なり。
三途すでに幻なれば、人間天上もまた幻なり。
三界の生死幻なれば、四生の因果も、ことごとく幻にして、一大法界のその中に、幻にあらざるものある事なし。
ところが生命が三界に流転するは、すべての存在が実在せず幻化であると知らずに、その夢幻の六塵(色・声・香・味・触・法)に貪着して、十悪(殺生・盗み・邪淫・いつわり・ざれごと・悪口・二枚舌・どん欲・怒り・愚痴)五逆(母・父・聖者を殺す、仏を傷つける・教団の分裂させる)の幻業をつくるので、地獄餓鬼の幻果を受ける。
自分の身体はもともと幻なので、その心もまた幻である。
その心もすでに幻であるから、その煩悩もまた幻である。
煩悩はもともと幻なのだから、その悪業もみな幻である。
悪業はことごとく幻であるから、三途(地獄・餓鬼・畜生)の苦果も幻なのである。
三途もまた幻なのだから、人間も天上もまた幻である。
三界(欲界・色界・無色界)の生死は幻であるから、四生(胎生・卵生・湿生・化生)の因果も、すべて幻であり、一大法界のその中に、幻でないものは存在しない。
【五の十九】
衆生幻業をつくりて、幻苦を受くるゆえに、諸仏幻慈をたれて幻法を説き、幻苦を救って、幻楽を与う。
これを涅槃の大楽という。
この大楽を受くる事は、その幻法を知るゆえなり。
衆生は幻法に迷うゆえに、幻業によりて幻苦を受く。
諸仏は幻法をさとるゆえに、幻苦を脱して、幻楽となす。
幻法にまよう衆生は、夢幻の生滅にばかされて、生死無常の行苦を受けて、行蘊の遷流となす。
幻法をさとる諸仏は、夢幻の生死を涅槃となして、行苦を滅して常楽にのぼる。
いかんしてか生滅の行苦をもって涅槃の常楽となすとならば、これ別に造作にあずかるにあらず。
ただ万法の遷流、生死の法を徹底夢幻と知ればなり。
生命が幻の業をつくって、幻苦を受けるので、諸仏は幻の慈悲をたれて幻の法を説き、幻の苦を救って、幻の楽を与える。
これを涅槃の大楽という。
この大楽を受けることは、その幻の法を知るからである。
生命は幻の法に迷うので、幻の業によって幻の苦を受ける。
諸仏は幻の法をさとるから、幻の苦を脱して、幻の楽とする。
幻の法にまよう生命は、夢・幻の生滅にだまされて、生死、無常の行苦を受けて、行蘊の流転とする。
幻なる法をさとる諸仏は、夢・幻の生死を涅槃として、行苦を滅して常楽にのぼる。
どのようにしてか生滅するという行苦をもって涅槃の常楽とするならば、これ別に人為的につくることはない。
ただすべての存在の流転、生死のことわりを徹底的に夢・幻と知っているからである
【五の二十】
このゆえに円覚にいわく、幻と知ればすなわち離る。
方便をなさず、幻をはなるればすなわち覚なり。
また漸次なしと。
そのゆえいかんとなれば、三界万法すでにこれ幻なるゆえに、幻は本より生ずることなし。
すでに生ぜぬ万法なれば、いずれの時か滅する事あらん。
すでに生滅去来にあずからず、あに不生不滅の涅槃にあらずや。
すでに不生不滅の体なれば、何ぞ是非得失の沙汰あらん。
本より生死なきゆえに、涅槃というも仮の名なり。
生死にも涅槃にもあらざれば、煩悩菩提のわかちもなく、衆生諸仏のへだてもなし。
生死のわずらいは煩悩なり。
煩悩なきがゆえに菩提もなし。
煩悩もなく生死もなければ、何をか衆生と名づくべき。
衆生のさとりたるを諸仏という、本より衆生にあらざるゆえに、いまさとりて、諸仏というべき事もなし。
されば悟という事は、かくのごとく人々の、本より迷わずして、ただ本のすがたなることをたしかに見つくるをいうなり。
これだから円覚経か言うには、「幻と知ればすなわち離る。
方便をなさず、幻をはなれればすなわち覚なり。
また漸次(幻と覚との中間の諸状態)なし」と。
その理由はどうかといえば、三界のすべての存在は、まぎれまなく幻なのだか、幻はもともと生ずることはない。
すべての存在は生ずることはない、生じないすべての存在はないから、いつそれが滅することがあるのか。
生滅・去来とはかかわりがないのに、どうしてそれが不生不滅の涅槃でないのか。
真に不生不滅の本体そのものであるから、どうして正しいか正しくないかをとにかく言われるのか。
もともと生死はないのだから、涅槃というも仮の名である。
生死でも涅槃でもないのだから、煩悩や菩提の区別もなく、生命や諸仏というべきてもない。
生死のまよい悩みは煩悩である。
煩悩がないから菩提もない。
煩悩もなく生死もなければ、何を生命と名づけるか。
生命のさとったのを諸仏という、もともと生命ではないのだから、いまさとって、諸仏というべきこともない。
そうならばさとりということはない、そうであるなら人の、もともと迷わないで、ただもともとの姿であることを、たしかに見とどけることをいう。
【五の二十一】
円覚経に始知衆生本来仏と、説かれたるこの意(こころ)なり。
本来成仏とは、本より仏という意なり。
本より衆生にあらざる故に、仏というべきようもなけれども、本より迷いの衆生にあらざることを、しいて仏と名づけたり。
このゆえに生死もなく、涅槃もなしといえども、凡夫のはかりがたき、奇妙のさとりの体、なしという事にはあらず。
円覚経に「始知衆生本来仏」と、説かれるのはこの意味である。
本来成仏いうのは、本来は仏という意味である。
もともと生命ではないのだから
ことさら仏と言う必要もない、もともと迷いの生命ではないことを、示すために仏と名づけただけである。
このようなわけで生死もなく、涅槃もないと言うが、凡夫がはかりしるのは難しい、さとりというものが、ないということではない。
【五の二十二】
楞伽経に、たとえば、牛にあらざる馬の性のごとく、馬にあらざる牛の性のごとしといえるはこれなり。
この意(こころ)は、たとえば牛にあらずといえばとて、馬の性なきにあらず。
馬にあらずといえばとて、牛の性体なきにはあらず。
いま生死涅槃にあらず、煩悩菩提にあらず、衆生諸仏にあらずというもそのごとし。
これみな牛にあらずというがごとし。
かように生死涅槃等の、牛にあらずといえばとて、不思議奇妙のさとりの、馬の性体なしという事にはあらず。
楞伽経に、たとえば、「牛にあらざる馬の性のごとく、馬にあらざる牛の性のごとし」というのはこれのこと。
この意味は、たとえば牛ではないからと言って、馬の性質がないということではない。
馬にではないからと言って、牛の性質がないということではない。
いまは生死でも涅槃でもない、煩悩でも菩提でもない、生命でも諸仏でもない、というのも。
これらの言葉は牛ではないと言うようなもの。
このように生死、涅槃等が、牛ではないからと言っても、思想や論議を超えたさとりという、馬の性質をもったものがないということではない。
【五の二十三】
またたとえば、夢みる人にむかいて、汝が見るところの物は、一切みなまことのものにはあらず。
天地と見るも、実の天地にあらず。
草木国土と見るも、まことの草木国土にあらず。
我と見、人と見、苦とおもい、楽とおもう。
みな実(まこと)の事にあらずといわん時、かの夢見る人、これを聞て、さては天地もなく、草木国土我人もなくして、空なるところを、さめたるまことのところといわんかというに似たり。
それにもあらずこれにもあらずというは、夢の内に見る事は、すべて跡なき妄想にて、真実の物にはあらざるに、夢の心には、まことの物ぞとおもいて、その物にとりつきて、苦とおもい、楽とおもうゆえに、その夢をさまして、さめたる時の真実の天地世界を、知らしめんためなり。
またたとえば、夢みる人にむかって、あなたが見ている物は、すべてみなほんとうのものではない。
天地と見るものも、実は天地ではない。
草木国土と見るものも、ほんとうの草木国土ではない。
自分と見て、人と見て、苦とおもい、楽とおもう。
すべて実(まこと)のことではないと言うとき、その夢見る人が、これを聞いて、それでは天地もなく、草木・国土・自分もなくて、空ということが、さめたまことのことかと言うに似ている。
それにもないこれでもないというのは、夢の内に見ることそれは、すべて実在しない妄想であり、真実のものではない、夢の心では、本当のこととおもっても、そのものにこだわって、苦とおもい、楽とおもうから、その夢をさまし、さめた時の真実の天地世界を、知らしめるため。
【五の二十四】
いま迷える人に向て、生死涅槃にあらず、衆生諸仏にあらずといえば、さては一向断無にして、空なるところを、まことのさとりというかと思えるは、夢見る人の、わが見るところ、すべて真実にあらずといわば、天地世界空にして、すべてなきところを、真実さめたる境界かというかというに似たり。
さとりて迷いの夢、はたと一度さめざれば、そのさとりのありさまを、たしかめ知る事あたわず。
いま迷っている人に向って、生死でも涅槃でもない、生命でもない諸仏でもないと言えば、それは一向断無(死ねばすべてなくなる)の者が、空ということが、まことのさとりということと思うのは、夢見る人が、自分が見ることが、すべて真実でないと言うなら、天地・世界・空はであり、すべてなにもないところを、真実のさめた境界というかというに似ている。
さとって迷いの夢から、はたと一度めざめなければ、そのさとりのありさまを、たしかめ知ることはできない。
【五の二十五】
法華の中に、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等と、説きたまえるは、まよいの夢の、さめたるときのすがたなり。
これを、法は法位に住して、世間の相常住という。
また衆生見劫尽、大火所焼時、我此土安穏、天人常充満といえり。
この意(こころ)は、まよいの衆生の眼には劫末になりて、この世界のやぶるる時、無間地獄より火おこりて、初禅天までやきほろぼすと見る時、釈迦如来の御眼よりは、この世界安穏にして、天人も人間もみちみちて、園林もろもろの堂閣、種々のたからの荘厳ありて宝樹には華果多く、衆生その中に遊楽す。
諸天天鼓をうちて、つねにもろもろの伎楽をなし、曼荼羅華をふらして、仏をよび大衆に散じ、そのほかに無量のたのしみありと見たまう。
同じひとつの水なれども、餓鬼の眼には火と見るに、人は本のごとく水と見る。
まよわざれば三界の火宅にはあらずして、清浄の浄土なれども、まよいて三界六道と見る。
餓鬼の水を火と見るがごとし。
法華経の中に、「如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等(あらゆる存在のそのままの、形相、特性、本体、能力、作用、原因、条件、結果、果報、本体と現象が、一つのものである)」と、説かれているのは、まよいの夢のさめた姿である。
これを、「法は法位に住して、世間の相常住」と言う。
また「衆生(生命)、劫尽き、大火に焼かれるのを見る時、我が此の土安穏(この世)にして、天人常に充満せり」とも言っている。
この意味は、まよいの生命の眼にはこの世の終わりになって、この世界の破壊されるときに、無間地獄から火がおこり、初禅天までやきほろぼすと見える時、釈迦如来の眼からは、この世界は平和で、天人も人間もみちみちて、お寺にはもろもろの堂閣、たからの荘厳な宝樹が数多くあり華果も多く、生命はその中で遊び楽しんでいる。
諸天は天の鼓(つづみ)をうちならし、つねにもろもろの伎楽をおどり、天界の花をふらして、仏をよび、大衆に花ふらし、そのほかに無数のたのしみあるがと見ている。
同じひとつの水ではあるけど、餓鬼の眼には火と見える、人は本来、水と見る。
まよわなければ三界の火に焼けた世界ではなく、清浄の浄土なのだけれども、まよって三界・六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天道)と見る。
餓鬼が水を火と見るように。
【五の二十六】
△問ていわく、こまかなるさようのことわりを聞けば、おおかたははその道理心得られて、わが身も本より仏にして、世界もむかしより、浄土ならん事うたがいなし。
しかりといえども、有為の世界のうつりかわるを見、わが身も生老病死にあずかる時は、生滅の行苦いまだ離れざるに似たり。
いかんじてかこの行苦を離れて、不生不滅にいたるべきや。
問うて言うのには、そのような細かいことわりを聞けば、だいたいのことはその道理わかって、自分も本来は仏であって、世界もむかしから、浄土であろうことはうたがいなし。
そうはいっても、現象の世界がうつりかわるのを見て、自分も生・老・病・死はまぬがれることはできないと知り、生・滅という行苦が、まだ離れないかのようにみえます。
どのようにしてこの行苦を離れて、不生不滅に達することができるのか
【五の二十七】
答えていわく、さようの心得はこれ信解とて分別にておしはかりて、すこしさとりのさりさまを心得たるに似たれども、いまだまことのさとりひらけざる故に、無明の夢さめやらず。
しかる故にそのことわりをあらましは知りながら、夢幻のわが身において、我執我慢もはなれず、憎愛是非もなお深し。
夢幻の境界にまよいて、ややもすれば、得失利害の心をおこして、三途の業をつくる。
みな夢中のすがたなり。
答えて言うのは、そのような理解は信解といって、分別でおしはかって、すこしさとりにちかずいただけで、さとりを理解したように見えるが、まだまださとりをひらいていないから、無明の夢はさめていないのである。
そうであるから、そのことわりのあらましを知りながら、夢幻のようなわが身では、我執我慢(自分への執着)もはなれず、憎愛是非(愛憎がない)という心も深い。
夢幻の境界にまよっていて、ともすれば、得失利害をはかる心で、三途(地獄・餓鬼・畜生)の業をつくる。
これらはみな夢の中のすがたである。
【五の二十八】
円覚経に、いまだ輪廻をいでずして、円覚を弁ずれば、かの円覚もまた、輪廻に帰すといえり。
この意(こころ)はいまだその心さとらずして、その分別の心をもって、かのさとりの円覚の体を弁別し、思量すれば、かの円覚もまた輪廻となるという意なり。
真実にさとりの体にかなわんと思わば、一切の知解情識をすてて是非邪正に心をとめず、銀山鉄壁にさし向かうがごとくにして真実堅固の志をおこし、一則の話頭を提撕して、前後左右をかえりみず、寝食寒暑を忘れて、疑い来り、疑い去らば、時節因縁到来して、忽然として曠劫以来の無明の漆桶を打破せんとき、はじめて長夜の夢さめて、掌(たなごころ)を打て呵々大笑して、本来の面目をあらわし本地の風光をあきらめ、千生万劫の本意をとぐべし。
ただ大真実の心をおこさずんばこの無明をやぶりがたし。
円覚経に、「いまだ輪廻をいでずして、円覚を弁ずれば、かの円覚もまた、輪廻に帰す」と言っている。
この意味は、まだその心さとらないのに、その分別の心で、あのさとりの円覚そのものを弁別し、あれこれ考えれば、円覚もまた輪廻となるという意味でる。
真実にさとりそのものである自己にめざめようと思うなら、すべての知解情識(知識でさとること)をすてて是非邪正(迷いの心)をすてて、銀山鉄壁(堅く高い壁)にさし向かうようにして本当に堅固な志をもって、一則の話頭(公案・禅問答)を専念・工夫・追従して、前後左右をかえりみず、寝るも食べるも寒いも暑いも忘れて、疑いを取り除く、そうすれば、時節が到来して因縁が熟して、忽然として遠い昔からの無明の闇を打ち破り、はじめて長夜の夢がさめて、掌(たなごころ)を打って声上げて大笑して、生まれながらの仏の人の本来の姿をあらわし、千生さらに長く願い続けた本意をとげることができる。
ただ大真実の心をおこさないと、この無明をやぶるのはむずかしい。
【五の二十九】
むかし長水尊者、楞厳の清浄本然、云何忽生、山河大地の文を疑いて、瑯琊の慧覚和尚に問うていわく、いかなるかこれ清浄本然、云何忽生、山河大地と。
瑯琊答えていわく、清浄本然、云何忽生、山河大地と。
長水言下において、桶底の脱するがごとく、忽然として大悟したまえり。
これまさしくこの行蘊をこえられしすがたなり。
むかし長水尊者が、楞厳経のなかの「清浄本然、云何忽生、山河大地」の文の意味が解らず、瑯琊の慧覚和尚にこのようにたずねた、「清浄本然、云何忽生、山河大地」と。
瑯琊和尚は、「清浄本然、云何忽生、山河大地」と。
長水尊者は言下に、桶の底が脱けるように、忽然として大悟された。
これまさしくこの行蘊をこえられたのである。
【五の三十】
楞厳の文の意味は、「清浄本然というのは、この世界はもともと、清浄本然の浄土であるという意味である。
雨安居の法要の席で、世尊が説かれたとき、富楼那(プンナ)尊者がたずねた、「如来がおっしゃるようにこの世界が、清浄本然の浄土ならば、どうして現実に、山河大地もろもろのこの世界で形を生じて、このように流転・生滅するのですか」と言ったという意味
長水は問うまえは行蘊の夢からさめていなかったので、この文にふかく疑があった。
それでこの文章をあげてその意味を問われた、瑯琊和尚の答によって、はじめてあの夢をさまして、清浄本然のところを見られたのである。
むかし僧あり。
徳高い老僧に問うて、「生起・死滅してとどまらない時どうしたらよいのか。」
老僧の答は、直ちにすべて、寒灰枯木(灰や枯れ木)にしてしまえ
また他の老僧に問いてみる、「生起・死滅してとどまらない時どうしたらよいのか。」
他の老僧の答えは、馬鹿者、どこに生起・死滅などあるか。
僧は言下に大悟したということ。
これはみな行蘊によって、本来の仏性があるすがたの境地にめざめた人の姿である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?