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二十八紙曼荼羅御開帳

なんだ、この漢字?
そうでしょう。わかります。意味不明。


なので、「光と闇の跫(あしおと)」より抜粋して紹介つかまつる。

 郡内の長となった弥三郎信有が就任当初に行った事業のひとつに、〈二十八紙曼荼羅御開帳〉がある。ただし主催は寺社により、弥三郎信有は通行の配慮を試みた程度だったが、とにもかくにも自国他国からの信者が吉田へ殺到したことは、景気向上につながったことは申すまでもない。
 他国からも商人がきて、物資が流通し市が立つと、その上納金だけでも馬鹿にはならなかった。とにかく生産性の低い吉田を潤わせるためには、絶好の機であったことには違いなかった。
 二十八紙曼荼羅。
 これは駿河国沼津にある光長寺に伝えられるもので、日蓮筆とされる。周辺の信徒にとって、これは生涯二度とない機会でもあった。甲斐には、日蓮ゆかりの身延山久遠寺がある。しかし、穴山氏支配の南部河内に属すため、本栖から下部を経た駿河口にあり、近くて遠い場所だった。
 それだけに、このことは、郡内の日蓮信徒には有難い。郡内だけではない。御坂を越えて国中からも信者がきた。駿河からも、相模からも、勿論武蔵からも。信仰は金になると、生前の出羽守信有は口にしていた。それが、現実になった。
 弥三郎信有は、これら民衆が放つ熱気と、情熱と、信仰の一徹さに、言葉を失った。
 昔、信有から越中のことを聞いた。信徒が国を奪い大名不在の国がある。成る程、この狂騒と熱情は、云い得て然るべきだ。
 醒めた目で見れば、どうということはない。しかし、信徒の瞳には、この曼荼羅は至宝であり、仏であり、この世の総てだった。
「鬼美濃殿も御覧の様子にて」
 小林尾張守貞親が指す先には、原美濃守虎胤がいた。
 戸石崩れの傷も癒え、わざわざこの曼荼羅を見るために来たのだろう。そもそも原虎胤は甲斐の生まれではない。下総の名族千葉氏の傍流にあたる。下総上総安房の三国は、日蓮の信徒が多い。そもそも日蓮は安房の出身だから、その出自を知るものなら自然だと得心する。
「鬼の目にも仏でござりますなぁ」
 小林貞親は苦笑した。
 弥三郎信有が原虎胤を見たのは、ひょっとして初めてではあるまいか。顔までも刀疵に被われ、毛穴から噴き出すような威圧感に包まれながら、民百姓にまみれて曼荼羅を拝むのである。なんと不思議な光景だろう。
 この曼荼羅開帳は、七月いっぱいまで続いた。
 善男善女の賽銭は、教団の資金となり、ともすれば郡内に還元もされた。
 
            (「光と闇の跫(あしおと)」第三話)抜粋

作品前後は、ぜひNOVLEDAYSでお楽しみあれ。
というわけで〈二十八紙曼荼羅御開帳〉の場所を明文していないが、どこかと問われれば答えはござる。

ここですだ。

法華宗本門流蓮華山妙法寺。
委細は河口湖.netをクリック。


ここに収蔵される「勝山記」がどうやら一番古いらしいが

「勝山記」「妙法寺記」。ともに原本よりの写本とされるが、内容は一次資料と呼べる貴重品。ん、妙法寺?そうです。この、妙法寺なんです。
天文21年(1552)7月には 大原の妙法寺において二十八紙大曼荼羅の御開帳が催され、善男善女の参拝で大いに賑わい、寺が破損するほどであったと「妙法寺記」には記されています。
夢酔は、リアルな出来事をチョイスして作品に反映した。しかし、戦国時代を俯瞰すればどうでもいい、一部信徒と地域のイベント。インパクトが弱いので、鬼美濃こと原虎胤を挟んだ訳です。ちなみに鬼美濃殿はガチの日蓮信徒。これはホントのことですから。

11月11日、第39回「青少年健全育成大月市民大会」開催にあたり、講演をすることになってます。
あと2日。不健全な夢酔が健全を語ること自体が不自然ですが、頂いたお仕事は頑張ります!
口述の一部に、実は〈二十八紙曼荼羅御開帳〉が挟まるのですが、別段、宗教談義をするつもりはありません。同列に〈大善寺勧進能〉も入れますから。

木々の奥に映える河口湖。戦国時代にあった一大イベントは、傍目にどうだったのでしょうね。
「武田信玄」作者、新田次郎ゆかりの古刹です。
観光地もいいけれど、静かな古に思いを馳せるのも大事な時間だと思いますよ…


河口湖行ったら、酒は「開運」。銘酒に酔い痴れてくんにょ。