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元禄大地震

元禄一六年(1703)一一月二三日(12月31日)丑刻(午前2時)。
新井白石はこの夜の事をかく記す。
 
   我初湯島に住みし比、元禄十六癸未のとし、
   十一月廿二日の夜半過る程に、
   地おびただしく震ひ始て、目さめぬれば、
   腰の物どもとりて起出るに、
   こゝかしこの戸障子皆倒れぬ、妻子どもの臥したる所に行てみるに、
   皆々起出たり。
   屋の後の方は高き岸の下に近ければ、皆々引ぐして、
   東の大庭に出づ。
   地裂る事もこそあれとて、倒れし戸ども出し並べて、
   其上に居らしめやがて新しき衣にあらため、
   裏打たる上下の上に道服きて、我は殿に参るり、
   召供の者二三人ばかり来れ、其余は家に留れと云て馳出づ
(『折りたく柴の記』より抜粋)
 
ただいま連載中の作品「真潮の河」は、江戸湾捕鯨の祖とされる初代・醍醐新兵衛を描く。その物語終盤の大きな山場が、元禄大地震。これは大きな周期で巡ってくる相模湾・駿河湾のプレート地震のひとつとして記録されるもの。
2023年9月、猫も杓子も関東大震災百年の話題で盛り上がった。そして2024年のお盆時期、南海トラフ米買占めなど、いつものことだが、防災グッズがよく売れるのも、この時期ならでは。しかし、本当に大震災が発生したら、どうか。
学説的に云われるのが、この元禄大地震と同質の南関東一帯被災を引き起こした相模湾震源の海溝型地震は200余年後の関東大震災とされる。極めて性質の似た地震という。
元禄地震の30年前に生じた延宝房総沖地震(延宝五年一〇月九日)はM8.4で過去最高クラス、日本海溝を震源地とした。元禄地震より154年後の安政東海大地震(嘉永七年一一月四日)・安政南海地震(翌五日)で安政江戸直下地震へ続く群発モノ。凄まじい大震災は、日本史の教科書では受験に関係ないためか教えられないため、人に知られていないのが実情。安政群発地震の次に起きたのが関東大震災だ。
元禄大地震を現代に伝える痕跡のひとつが土地の隆起。千葉県最南端で知られる白亜の灯台、野島崎。ここは里見時代の伝承も多いが、間違いなく云えるのは、野島という島があったということ。灯台のある半島状の突起は、もともと島だった部分が陸続きになった結果である。房総半島突端は3.4mの隆起、三浦半島先端の剱崎・盗人狩付近も1.5m隆起した。反対に醍醐新兵衛ゆかりの鋸南町にあった仏崎という岬は沈降し海底に没した。
元禄大地震の記憶は地元にも薄く、ましてや都内では関東大震災に上書きされて目にすることもない。しかし関東大震災よりも恐ろしい連鎖が、元禄地震にはあった。相模トラフから誘発した南海トラフの宝永大地震(宝永四年一〇月四日/1707年10月28日)と、宝永大噴火(同年一一月二三日/12月16日)いわゆる富士山の噴火だ。
令和の世に南関東の海溝型地震が生じたら、過去のどのタイプが当てはまるだろうか。そう考えたときの想定の甘さが、現代日本を物語る。太平洋沿岸を東北から紀伊半島・四国・九州まで襲来する巨大津波。元禄大地震では房総伊豆半島で10mを超えた規模とされる。埋立地、造成地、発電所関係、備蓄倉庫等々、すべて沿岸に集中している令和日本。東日本大震災の比ではない規模の災害が絶対に起こる。
江戸時代の民衆は、裸一貫になっても立ち上がることが出来た。
令和の我々は依存するハイテクが失われた環境で生きていけるだろうか。そして、過去の震災時期に注目して欲しい。宝房総沖地震(延宝五年一〇月九日/1677年11月4日)・元禄大地震(元禄一六年一一月二三日/1703年12月31日))・安政東海大地震(嘉永七年一一月四日/1854年12月23日)・安政南海地震(嘉永七年一一月5日/1854年12月24日)・安政江戸地震(安政二年一〇月二日/1855年11月11日)・関東大震災(大正一二年九月一日/1923年)。秋から年の瀬にかけて集中している。無論、偶然の一致かも知れないが、確率論でいえばかなり高いだろう。冬の寒空に焼け出された我々はスマホや冷食のない世界で生き抜く力があるだろうか。
今回も神奈川震源地地震が、シレーッと割り込んでいる。
これを重視するか、無視できるかは、勝手なこと。ただしどんなに備えても生かされなければ無意味。災害は集団でこそ生存確率が伸びる。近所づきあいのない防災マニアさん、心して。

人は歴史から学ぶことが出来る生き物だ。そして、学んでいる人間がどれほどいるだろう。自らの作品を通じ戦慄を覚えるのは、嫌な気分である。
 

この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。