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新選組のつるね

新選組のなかでもあまり聞かない隊士は多い。
新選組を扱う漫画や小説を見回しても、だいたいの扱いはモブ。しかし、人に歴史がありエピソードがあるわけだから、彼らにも新選組になくてはならない逸話がある。
そんな人物や与太話の短編集「新選組婉曲」。

インタープレイブックスで電子書籍化されております。さりげなく宣伝。

安藤早太郎。
彼も知られざる新選組隊士です。安藤早太郎は四〇も過ぎて新選組に参加した男で、北辰一刀流を学んでいた。陽気な男として、屯所だった八木家の女たちから御用を頼まれることもあったらしい。
 
安藤早太郎の面白エピソードがある。
前原邸で野口健司の切腹に介錯役を務めた安藤早太郎は、その足で八木邸に赴いた。そこでは正月用の餅の準備がされていて男手も足りないからと、安藤早太郎が呼び止められた。嬉々と餅をつく安藤早太郎をみて、ギョッとした隊士が八木家の者に
「あいつ手を洗ったか」
と聞く。そのまま呼び止めたから手桶でさっという程度だと答えたら
「人の首を切ってきたばかりだぞ」
と告げられ、女たちは仰天した。
この餅は、恐らく新選組の正月用として始末されたのだろうと想像できる。それにしても、首を切ったばかりで平然と餅つきの出来る安藤早太郎のメンタルには驚かされる。

安藤早太郎は弓矢の達人でした。
彼は三河国挙母藩の出身。安藤早太郎はその頃に弓を学んでいた。父親が江戸勤務のだったこともあり、その折にはには戸田市郎兵衛に師事して石堂竹林派を修行した。
竹林派は日置流と呼ばれる和弓の流派で、有名な小笠原流よりは歴史が浅い。戦国時代にはもう一派は確立していたから、幕末では一種のブランドだったと思われる。竹林派は石堂竹林坊如成を開祖とし、堂射と縁の深い系統ではあった。挙母に帰郷してからは高木応心斎から応心流を学んだという。とにかく安藤早太郎は、弓にのめり込んだ達人であることには間違いない。
天保一三年(1842)、東大寺大仏殿西回廊において通し矢を行った安藤早太郎の記録は距離は全長(同)106.8m、高さ3.8〜4.1m、幅2.10m。時間は四月二〇日酉の刻(18時頃)より翌二一日未半刻(15時頃)まで、本数は11,500本中8,685本を射通している。
これの成功率はざっと75.5%。
この当時の的あての数は、日本記録です。このことから、安藤早太郎は弓に関するスペシャリストの一人といってよい。藩主からも絶賛され、家老並の俸禄を受けたとされます。
しかし、いつの世にも融通の利かぬ事柄がある。
オフィシャルとしては、京都三十三間堂で開催された大会で記録を出さなければ〈天下一〉とは認められなかった。
 
安藤早太郎がどういう経緯で新選組へ至ったのかは謎です。ただし足跡は残されています。嘉永三年(1850)に脱藩したのち、知恩院一心寺へ入寺しています。出家したのか世捨てになったのか分かりませんが、藩を出たということは、弓を巡ってのことではないでしょうか。
安藤早太郎が新選組に残した足跡は一年ちょい。
文久三年(1863)五月に入隊し、翌年七月八日のの池田屋事件に参加。隊としては局長付一〇人のなかに参加している。池田屋裏庭の防御役を務めた折、土佐脱藩・望月亀弥太らが脱出しようと切り込んできたため応戦。このとき一緒にいた奥沢栄助は死亡、新田革左衛門は負傷した。
安藤早太郎もこの戦闘で深手を負った。
その後、治癒に至らず七月二二日に死亡した。このときの功績だろうか、後に会津藩から別段金二〇両を賜ったとされる。

弓の達人も幕末動乱の京都では、その腕を揮うことはなかった。
いや、弓のことは脱藩により封じたのだろうか。ひょっとして、弓を引けなくなった事情が脱藩に至らしめたものか。
想像が膨らむのですが、少なくとも新選組では、北辰一刀流の剣客という顔だけが残されているのです。

もし、池田屋事件で命を落とさずにいたら。安藤早太郎の新選組エピソードは、もっと濃いモノになったかも知れない。
そう感じる不思議な人物です。


この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。